長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二 (1頁~)
1頁~
100頁~
200頁~
300頁~
400頁~
500頁~
600頁~
「信濃史料」巻別収録年代に戻る
・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇
年月日
西暦
記事
頁
神代
神代
建御名方神、諏訪に入ると伝ふ、
1
崇神
崇神四八年四月一九日
豊城命をして東国を治めしむ、
6
崇神
是代
神八井耳命の孫健五百健命、科野国造となる、
7
垂仁
是代
皇子本牟智和気御子の為めに山辺の大鶙を遣はして鵠を捕へしむ、大鶙之を追ひ、尾張国より科野国を経て高志国に至り、、、
8
景行
景行四〇年一〇月
日本武尊、東征の帰途、信濃国を過り、信濃坂の山神の害を除く、
9
景行
景行五五年二月五日
彦狭嶋王、東山道十五国の都督となり、尋いで春日穴咋邑に到りて薨ず、仍りて東国の百姓、、、
12
景行
景行五六年八月
彦狭嶋王の子御諸別王をして東国を治めしむ、時に蝦夷騒動す、王之を討ちて降す、
12
成務
成務五年九月
山河によりて国県を分ち、国郡に造長を立て、縣邑に稲置を置く、
13
応神
応神五年八月一三日
諸国に海人部及び山守部を置く、
15
履中
履中四年八月八日
始めて諸国に国史を置き、言事を記して中央に通達せしむ、
15
雄略
雄略一一年一〇月
信濃国直丁等、天皇をそしり、罪せられて鳥養部となる、
16
武烈
武烈三年一一月
信濃国の男丁を徴発して、城の形を水派邑に作る、
17
欽明
欽明一三年一〇月一三日
信濃国善光寺仏、百済より渡来すと伝ふ、
18
崇峻
崇峻二年七月一日
近江臣満を東山道に遣はし、蝦夷の国の境を視察せしむ、
25
推古
推古三年
595
信濃国筑摩郡荒田郷五十烟を難波の荒陵寺(四天王寺)に施入す、
26
推古
推古六年
598
聖徳太子甲斐鳥駒に御し、富士山に至り、信濃を経て帰来すと伝ふ、
28
推古
推古一〇年四月八日
602
信濃の人若麻績東人、善光寺如来を信濃国水内郡麻績郷に移すと伝ふ、
29
推古
推古一五年七月三日
607
各国毎に屯倉を置く、
37
推古
推古二八年
620
皇太子、大臣蘇我馬子と議し、天皇記及び国記・臣・連・伴造・国造・百八十部並びに公民等の本記を録す、
38
推古
推古三五年五月
627
蝿集りて信濃坂を越え、上野国に至りて散ず、
38
皇極
皇極元年
642
若麻績東人、水内郡の宅を改めて草堂となす、善光寺是なりと伝ふ、
39
孝徳
大化元年八月五日
645
東国の国司を任じ、戸籍を作り田畝を校へしむ、
41
孝徳
大化元年九月一九日
645
諸国の民を録す、
42
孝徳
大化二年一月一日
646
改新の詔を宣し、新令四ヶ条を下す、
43
孝徳
大化二年三月二日
646
東国の国司を詔して、新令を遵奉せしむ、
45
孝徳
大化二年三月一九日
646
東国の朝集使に詔して、公私の物を取るを戒む、
45
孝徳
大化四年
648
越後磐舟の柵を治め、越と信濃の民を之に移す、
46
斉明
斉明六年
660
信濃国、蠅群りて巨坂を飛踰え西に赴くを奏す、
47
天智
天智五年
666
百済の男女二千余人を東国に遷す、
48
天武
天武元年六月二六日
672
天皇、吉野を出でて、是日、朝明郡の郡家に到り、使を遣はして信濃の兵を発さしむ、
48
天武
天武元年
672
信濃国、赤鳥を献ずるを祥瑞となし、朱雀と改元すといふ、
49
天武
天武二年
673
信濃の民五十戸を高市大寺大安寺に、三百三十戸を飛鳥寺元興寺に施入して、それぞれ封戸となす、
50
天武
天武一一年七月二七日
682
信濃国五穀実らざることを奏す、
52
天武
天武一二年一二月一三日
683
伊勢王等をして天下を巡行し、諸国の境堺を限り分たしむ、、、
52
天武
天武一三年二月二八日
684
三野王、小錦下采女臣筑羅等を信濃に遣はして、地形を視しむ、尋いで三野王等信濃国の図を上る、
53
天武
天武一四年三月
685
信濃国に灰降り草木皆枯る、
54
天武
天武一四年七月二七日
685
詔して、東山道美濃以東の諸国の有位者に課役を免ず、
55
天武
天武一四年九月一五日
685
直広肆石川朝臣虫名を東山道に遣はし、国司・群司及び百姓の消息を巡察せしむ、
55
天武
天武一四年一〇月一〇日
685
軽部朝臣足瀬・高田首新家、・荒田尾連麻呂を信濃に遣はし、行宮を造らしむ、
56
持統
持統五年八月二三日
691
使者を遣はして、信濃国須波・水内等の神を祭らしむ、
57
文武
文武四年二月二二日
700
巡察使を東山道に遣はし、非違を検察せしむ、
57
文武
文武四年三月一七日
700
諸国をして牧地を定め、牛馬を放牧せしむ、
58
文武
文武四年一〇月
700
使を諸国に遣はして蘇を造らしむ、尋いでこれを貢上せしむ、
58
文武
大宝元年六月八日
701
使を七道諸国に遣はして、新令によりて政を為すことを告げ、又新印様を頒つ、
61
文武
大宝元年八月二一日
701
信濃国、蝗害及び大風のために屋舎作物を損ふ、
62
文武
大宝二年二月一日
702
始めて新律を天下に頒ふ、
62
文武
大宝二年三月二七日
702
信濃国、梓弓一千二十張を献ず、之を大宰府に充つ、
63
文武
大宝二年四月一三日
702
諸国の国造の氏を定む、
64
文武
大宝二年一二月一〇日
702
始めて美濃国岐蘇山道を開く、
64
文武
大宝三年一月二日
703
従六位上多治比真人三宅麻呂を東山道に遣はし、政績を巡察せしむ、
65
文武
大宝三年三月二七日
703
信濃等の国に疫あり、薬を給せらる、
65
文武
慶雲元年三月二九日
704
信濃国に疫あり、薬を給せらる、
66
文武
慶雲元年四月九日
704
鍛冶司をして、諸国の印を鋳しむ、
66
文武
慶雲元年四月一五日
704
信濃国、弓千四百張を献ず、是日、之を大宰府に充つ、
67
文武
慶雲三年二月二六日
706
信濃等五国の十九社、祈年幣帛を給はるの列に入る、
67
元明
和銅元年三月一三日
708
従五位下小治田朝臣宅持、信濃守となる、
68
元明
和銅二年三月五日
709
陸奥・越後二国の蝦夷叛するにより、信濃等七国の民、微発せられて軍に従ふ、尋いで事畢りて、征役五十日以上を経たる者に課役を免ず、
68
元明
和銅二年九月二六日
709
従五位下藤原朝臣房前を東海・東山二道に遣はし、関剗を検察し、風俗を巡省せしむ、
70
元明
和銅三年二月一一日
710
信濃国に疫あり、薬を給せらる、
70
元明
和銅四年一二月二日
711
大初位上丹波史千足等、外印を偽造して仮に人に位を与へ、信濃国に配流せらる、
71
元明
和銅六年五月二日
713
諸国郡郷の名は好字を著け、其の風土記を上らしむ、
71
元明
和銅六年五月一一日
713
信濃国をして石硫黄を献ぜしむ、
71
元明
和銅六年七月七日
713
信濃・美濃の国界、径道険隘なるを以て、吉蘇路を通ず、
72
元明
和銅七年四月二六日
714
太政官奏して、諸国に大中小の倉を造りて、虚の帳なからしむ、
74
元明
和銅七年一〇月二日
714
信濃国等の民を割きて、出羽柵戸に配す
75
元明
和銅七年一〇月一三日
714
従五位下佐伯宿祢沙弥麻呂、信濃守となる、
75
元正
霊亀二年九月二三日
716
信濃等四国の民各百戸を出羽国に移す、
75
元正
養老元年二月二六日
717
信濃等四国の民各百戸を出羽柵戸に配置す、
76
元正
養老元年五月八日
717
信濃等の国をして始めて絁の調を貢せしむ、
77
元正
養老元年九月一八日
717
天皇美濃国に行幸するにより、信濃国司等、美濃の行在所に至り、風俗の雑伎を奏す、
77
元正
養老三年七月一三日
719
始めて按察使を置く、美濃守笠朝臣麻呂をして信濃・尾張・三河を管せしむ、
78
元正
養老五年六月二六日
721
信濃国を割きて諏方国を置く、尋いで美濃按察使の管下となす、
79
聖武
神亀元年三月一日
724
配流の遠近の程を定め、諏方国を中流となす、
80
聖武
神亀五年一二月二八日
728
国毎に金光明経十巻を頒つ、
81
聖武
天平三年三月七日
731
諏方国を廃して信濃国に併す、
81
聖武
天平三年五月一四日
731
外従五位下巨勢朝臣又兄、信濃守となる、
85
聖武
天平四年八月一七日
732
正三位藤原朝臣房前、東海・東山二道節度使となる、
85
聖武
天平四年八月二二日
732
東山道諸国の兵器牛馬を他所に売ることを禁ず、又節度使所管の諸国軍団に幕・釜等を備へしむ、
86
聖武
天平五年
733
信濃の民五十戸を、楽師寺に施入して封戸となす、
88
聖武
天平六年
734
東山道等七道撿税使の算計法を定む、
89
聖武
天平九年三月三日
737
国毎に釈迦三尊像を造り、大般若経一部を書写せしむ、
90
聖武
天平一〇年一月一日
738
信濃国、神馬を献ず、
91
聖武
天平一〇年三月二八日
738
信濃の民二百戸を山階寺興福寺に施入して封戸となす、
91
聖武
天平一〇年四月
738
谷綿麻呂信濃介たり、
92
聖武
天平一〇年五月三日
738
東山道等諸国の健児を停む、
92
聖武
天平一〇年八月二六日
738
天下の諸国に各国郡図を造りて上らしむ、
93
聖武
天平一一年一〇月
739
信濃国調布を貢す、
93
聖武
天平一二年六月一九日
740
国毎に法華経十部を写し、七重塔を建立せしむ、
94
聖武
天平一二年九月三日
740
藤原広嗣の叛により、大野朝臣東人を大将軍となし、東山道等の諸軍を率ゐて之を討たしむ、
94
聖武
天平一三年三月二四日
741
詔して国毎に金光明四天護国寺・法華滅罪寺を創建せしむ、
95
聖武
天平一三年一〇月
741
小県郡、芥子を貢す、
99
聖武
天平一六年七月二三日
744
詔して、四畿内七道諸国、国別に正税四万束を割きて国分寺に入れ、造寺用に充てしむ、
99