長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻二 (600頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
堀河康和五年六月一〇日1103御体御卜、神祇官、信濃国穂高神、小内神等の崇りあることを奏す、600
堀河康和五年八月一六日1103信濃諸牧の貢馬を牽進す、602
堀河長治元年八月一六日1104信濃諸牧の貢馬を牽進す、602
堀河長治二年二月二二日1105信濃守藤原朝臣斉長の子、僧斉尊寂す、603
堀河長治二年八月一六日1105信濃諸牧の貢馬を牽進す、604
堀河嘉承二年五月一三日1107信濃守高階朝臣為行卒す、605
鳥羽天仁元年一月二四日1108本院蔵人大江朝臣広房、信濃守となる、605
鳥羽天仁元年七月二一日1108信濃浅間山噴火す、 ○浅間山を詠める歌 四首606
鳥羽天永二年八月一六日1111信濃諸牧の貢馬を牽進す、609
鳥羽天永二年一一月四日1111是より先、下野守、源朝臣明国、美濃に下向の途次、信濃守大江朝臣広房の郎等等を斬る、是日、検非違使をして明国の郎従を勘問せしむ、609
鳥羽天永二年一二月二六日1111穀倉院別当雅保、信濃守大江朝臣広房をして、穀倉院領院預位田六百町所当年貢を弁済せしむべきことを訴ふ、610
鳥羽天永三年一月二七日1112県召除目、藤原朝臣惟明、信濃守となる、612
鳥羽天永三年八月一六日1112信濃諸牧の貢馬を牽進す、612
鳥羽天永三年一〇月二四日1112去る廿日より、京に於て東方に鳴動を聞くも、何たるかを知らず、仍りて、信濃国をして、浅間山の噴火なりや否やを記して上申せしむ、613
鳥羽永久元年八月一六日1113信濃諸牧の貢馬を牽進す、614
鳥羽永久二年五月九日1114善光寺別当の従者等、法勝寺の四至内に於て濫行す、616
鳥羽永久二年五月一七日1114是より先、尊勝寺領信濃庄の年貢、貢上の途中美濃にて強盗に奪はれ、出羽前司源朝臣光国の朗等、犯人を捕ふ、是日、院宣を下して、同類を召進めしむ、616
鳥羽元永元年八月一九日1118信濃諸牧の貢馬を牽進す、618
鳥羽元永元年閏九月九日1118信濃守平朝臣盛基の五条烏丸の邸焼失す、619
鳥羽保安元年五月二八日1120県召除目、藤原朝臣重時、信濃守となる、619
崇徳大治二年一二月二〇日1127京官除目、源朝臣重時、相模守に転じ、藤原朝臣盛重、信濃守となる、620
崇徳大治四年六月一〇日1129信濃守藤原期臣盛重、白河法皇に馬を貢す、622
崇徳大治四年一一月二八日1129興福寺衆徒乱発の帳本、当講恵暁以下を移郷せしめ、寛恵を信濃に移す、622
崇徳大治五年二月九日1130女御藤原聖子に、立后宣旨を下し、輦車を許す、信濃権守藤原朝臣重方、此の儀に候す、625
崇徳大治五年七月三日1130信濃守藤原朝臣盛重、故白河法皇の料として、千僧の供物を具して叡山に登る、626
崇徳大治五年八月一六日1130信濃諸牧の貢馬を牽進す、627
崇徳天承元年八月一六日1131信濃諸牧の貢馬を牽進す、627
崇徳天承元年九月二〇日1131京の城南寺の祭事あり、信濃守藤原朝臣盛重、流鏑馬の射手を献ず、628
崇徳長承元年一月二二日1132県召除目、大江朝臣季重、信濃権守となる、629
崇徳長承元年一一月四日1132信濃の長田・芳美両御厨の中、長田の外宮御厨たることを認め、芳美はこれを停止す、629
崇徳長承元年一一月二三日1132信濃守藤原朝臣盛重、五節舞姫の装束料布三十段を献進す、630
崇徳長承元年一二月二五日1132除目、藤原朝臣親隆、藤原朝臣盛重に代わりて信濃守となる、631
崇徳長承三年一月二九日1134是より先、信濃国司、外宮長田御厨を新立の御厨と称して停廃せんとしたるも、神人肯ぜすして殺害せらる、是日、検非違使庁をして下手人を召して沙汰せしむ、634
崇徳保延元年八月一六日1135信濃諸牧の貢馬を牽進す、635
崇徳保延元年八月二九日1135藤原朝臣祐房、春日神社境内に信濃の諏訪明神を勧請し、兵主神社を建つ、635
崇徳保延二年八月一六日1136信濃諸牧の貢馬を牽進す、636
崇徳保延五年一月二四日1139従五位上藤原朝臣朝隆・信濃守となる、637
崇徳保延六年三月三日1140伊那群光明寺薬師如来坐像造立せらる、637
近衛康治元年八月一六日1142信濃諸牧の貢馬を牽進す、639
近衛康治二年一月二七日1143県召除目、従五位下藤原朝臣賢行、会昌門廊修造の功により、信濃守となる、640
近衛康治二年八月一六日1143信濃諸牧の貢馬を牽進す、640
近衛天養元年八月一六日1144信濃諸牧の貢馬を牽進す、641
近衛久安元年七月九日1145院庁、下文を最勝寺領信濃小川庄の公文等に下し、平維綱の妨を停止し、預増証の下知に従ひて、下司の沙汰を致さしむ、641
近衛久安元年八月一六日1145信濃諸牧の貢馬を牽進す、643
近衛久安二年四月一一日1146除目、藤原朝臣親康、信濃権守となる、643
近衛久安二年八月一六日1146信濃諸牧の貢馬を牽進す、644
近衛久安三年八月一六日1147信濃諸牧の貢馬を牽進す、644
近衛久安三年一二月一六日1147民部権大輔藤原朝臣親隆の解文により、不堪佃田の官符を尋ねずして信濃の国の重減省の公文を勘会せしむ、645
近衛久安三年一二月二一日1147民部権大輔藤原朝臣親隆、信濃・上総の国務の功により、尾張守に任じ、従四位下に叙せらる、647
近衛久安四年一〇月一七日1148従五位下藤原朝臣清道、信濃守となる、648
近衛久安五年八月一六日1149信濃諸牧の貢馬を牽進す、649
近衛久安五年一〇月二五日1149左大臣藤原朝臣頼長の女多子入内のため、信濃等の諸国に料物を課す、649
近衛久安五年一〇月二六日1149摂政太政大臣藤原朝臣忠通の室准三后藤原宗子の侍所始あり、信濃権守藤原朝臣長親職事となる、651
近衛久安六年八月一六日1150信濃諸牧の貢馬を牽進す、652
近衛仁平元年七月三日1151大師某、妙法連華経・無量寿経を経筒に収め、之を更級郡長谷寺に埋納す、653
近衛仁平元年八月一六日1151信濃諸牧の貢馬を牽進す、655
近衛仁平元年八月二六日1151是より先、少監物藤原朝臣仲盛、信濃国の沙汰を執行するに当り、斉院の召使を凌辱す、是日、大納言藤原朝臣伊通の宅に検非違使を遣はして、仲盛を責めしむ、655
近衛仁平二年三月一六日1152信濃国の計歴官符に請印す、656
近衛仁平二年八月一六日1152信濃諸牧の貢馬を牽進す、656
近衛仁平三年八月一六日1153信濃諸牧の貢馬を牽進す、657
近衛久寿元年八月一六日1154信濃諸牧の貢馬を牽進す、658