長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二(100頁~)
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天皇
年月日
西暦
記事
頁
聖武
天平一六年九月一五日
744
畿内七道に巡察使を遣はし、正五位上平群朝臣広成を東山道使となす、
100
聖武
天平一七年一〇月五日
745
諸国出挙の正税数を定む、尋いで諸国公廨稲数を定む、
100
聖武
天平一八年四月五日
746
参議式部卿正四位上藤原朝臣仲麻呂、東山道鎮撫使を兼ぬ、尋いで之を停む、
103
聖武
天平一八年六月二一日
746
従五位下物部依羅朝臣人会、信濃守となる、
103
聖武
天平一九年九月二一日
747
勅旨により、小県郡の民五十戸を東大寺に施入して封戸となす、
104
聖武
天平一九年一一月四日
747
従五位下坂合部宿祢金綱、信濃守となる、
105
聖武
天平一九年一一月七日
747
詔して使を諸国に分遣し、金光明寺・法華寺の寺地を検定し、作状を察し営繕を加へしむ、
105
聖武
天平二〇年四月二五日
748
更級郡村神郷の人私部乙万呂、写書所に於て出家せんことを請ふ、
107
孝謙
天平勝宝二年二月二三日
750
東大寺に封戸三千五百戸を施入し、前に通じて五千戸となす、中に信濃にあるもの二百五十戸あり、
108
孝謙
天平勝宝二年一〇月
750
水内郡大田郷芥子を貢す、
109
孝謙
天平勝宝四年一〇月
752
筑摩郡山家郷の人小長谷部尼麻呂、調庸布を貢す、
109
孝謙
天平勝宝六年一一月一日
754
従五位下石川朝臣豊成、東山道巡察使となる、
110
孝謙
天平勝宝七年二月二二日
755
信濃国の防人部領使、京に向ふ途上に病を得、防人等の歌十二首を上る、
111
孝謙
天平宝字元年七月四日
757
信濃守佐伯大成、橘奈良麻呂の謀反に座して任国に配流せらる、
114
孝謙
天平宝字元年七月八日
757
従五位下忌部宿祢鳥麻呂、信濃守となる、
116
孝謙
天平宝字元年一〇月一一日
757
諸国の公廨稲処分の式を定む、
116
孝謙
天平宝字二年一月五日
758
正六位下藤原朝臣浄弁を東海東山道問民苦使となす、尋いで、浄弁、民意をきゝ、老丁・耆老の歳各一年を減ぜんことを請ふて勅許せらる、
117
淳仁
天平宝字三年五月九日
759
諸国に常平倉を置き、東山道は左平準署をして之を管掌せしむ、
119
淳仁
天平宝字四年一月二一日
760
従五位下石川朝臣公成を東山道巡察使となす、
120
淳仁
天平宝字五年一月一六日
761
従五位下紀朝臣僧麻呂、信濃介となり、鎮国衛驍騎将軍従四位上藤原恵美朝臣真光、美濃・飛騨・信濃按察使を兼ぬ、
121
淳仁
天平宝字五年一〇月一〇日
761
唐の求めにより、東山・東海等の諸国に命じて、牛角を貢せしむ、
121
淳仁
天平宝字六年一月四日
762
美濃・飛騨・信濃按察使藤原恵美朝臣真光、参議となる、
122
淳仁
天平宝字六年五月九日
762
信濃・美濃・飛騨等の国に地震あり、損を被るもの家ごとに穀二斛を給ふ、
123
淳仁
天平宝字七年四月一日
763
信濃国、飢饉のために賑給せらる、
123
淳仁
天平宝字八年一月二一日
764
従五位下藤原朝臣継縄、信濃守となる、
124
淳仁
天平宝字八年一〇月三日
764
従五位下三川王、信濃守となる、
124
淳仁
天平宝字八年一〇月三〇日
764
東山・東海等諸国をして、騎女を貢せしむ、
125
淳仁
天平宝字八年一〇月
764
安曇郡前科郷の人安曇部真羊、調布を貢す、
125
淳仁
天平宝字八年一二月
764
武蔵国の人、丈直山継、藤原仲麻呂の乱に座し、危く死罪を免れて、信濃国に流さるといふ、
126
称徳
天平神護二年七月二二日
766
従五位下太朝臣犬養、信濃守となる、
128
称徳
天平神護二年九月二三日
766
正五位上淡海真人三船、東山道使となる、
128
称徳
神護景雲元年七月三日
767
少納言従五位下当麻王、信濃介を兼ぬ、
130
称徳
神護景雲二年一月二八日
768
信濃国牧主当伊那郡大領金刺舎人八麿の解により、課欠駒は律によりて罪を科し、価を徴することなからしむ、
130
称徳
神護景雲二年五月二八日
768
更級郡の人建部大垣、水内郡の人刑部智麻呂・倉橋部広人等、それぞれ善行を賞せらる、
133
称徳
神護景雲二年六月二三日
768
伊那郡の人他田舎人千世売 其の節を守れるを以て賞せられ、位二級を賜はる、
133
称徳
神護景雲二年七月一日
768
外従五位下濃宜公水通、信濃介となる、
134
称徳
神護景雲三年八月一九日
769
従五位上弓削宿祢大成、信濃員外介となる、
134
称徳
神護景雲三年九月一七日
769
従四位下藤原朝臣楓麻呂、信濃守となる、
134
称徳
神護景雲三年
769
信濃の民廿戸を囗師寺に施入して、封戸となす、
135
光仁
宝亀元年一〇月二三日
770
従五位下田口朝臣水直、信濃員外介となる、
135
光仁
宝亀元年一〇月二五日
770
水内郡の人正七位下金刺舎人若嶋、外従五位下を授けらる、尋いで連の姓を賜はる、
136
光仁
宝亀三年二月一六日
772
信濃守従五位上菅生王、中務大輔を兼ぬ、
136
光仁
宝亀三年二月二二日
772
是より先、従五位上掃守王の男小月王、姓を勝間田と賜はりて信濃国に流さる、是日、赦されて旧籍に復す、
137
光仁
宝亀三年九月二三日
772
従五位下多治比真人豊浜、信濃守となる、
137
光仁
宝亀三年九月二六日
772
正五位下佐伯宿祢国益、東山道巡察使となる、
137
光仁
宝亀三年一〇月五日
772
中務大輔従五位上兼少納言信濃守菅生王、小家内親王を姧するに座して除名せらる、
138
光仁
宝亀四年四月
773
信濃国小県郡跡目里の人他田舎人蝦夷死し、七日の後に甦りて、冥報を語ると傳ふ、
138
光仁
宝亀五年三月五日
774
従五位下石川朝臣望足、信濃守となる、
140
光仁
宝亀五年三月
774
信濃国小県郡嬢里の人、大伴連忍勝、同族に殺され、五日の後に甦りて冥報を語ると伝ふ、
141
光仁
宝亀六年七月五日
775
信濃国等、飢饉を以て賑給せらる、
142
光仁
宝亀七年一月一九日
776
正五位下石上朝臣家成、東山道撿税使となる、
143
光仁
宝亀八年一月一〇日
777
外従五位下金刺舎人連若嶋、従五位下を授けらる、
144
光仁
宝亀九年二月四日
778
従五位下大原真人浄貞、信濃守となる、
145
光仁
宝亀九年八月二〇日
778
正五位下大伴宿祢不破麻呂、信濃守となる、
145
桓武
天応元年五月二五日
781
従五位下紀朝臣家継、信濃守となる、
145
桓武
天応元年一〇月一四日
781
高井郡墨坂神、越知神に封戸各一戸を充つ、
146
桓武
延暦三年四月三〇日
784
正五位上巨勢朝臣苗麻呂、信濃守となる、
147
桓武
延暦四年一月二七日
785
従五位上中臣朝臣鷹主、信濃守となる、
148
桓武
延暦五年一月二四日
786
従五位下多治比真人賀智、信濃介となる、
148
桓武
延暦五年八月八日
786
蝦夷を征せんため、紀朝臣揖長を東山道に遣はし、軍士を簡閲し、戎具を撿せしむ、
149
桓武
延暦五年一〇月八日
786
従五位下県犬養宿祢堅魚麻呂、信濃守となる、
149
桓武
延暦七年三月二日
788
東山・東海・北陸三道諸国をして糒及び塩を陸奥国に転運せしむ、尋いで東海・東山・坂東諸国の兵を明年三月を期して陸奥国多賀城に会せしむ、
150
桓武
延暦八年五月二九日
789
筑摩郡の人外少初位下後部牛養・無位宗守豊人等、田河造の姓を賜はる、
151
桓武
延暦八年一二月二九日
789
信濃介多治比真人賀智、養民司となる、
151
桓武
延暦九年三月一〇日
790
大蔵大輔正五位下藤原朝臣乙叡、信濃守を兼ね、従五位下平群朝臣清麻呂、介となる、
152
桓武
延暦九年閏三月四日
790
蝦夷を征せんがため、東山道信濃以東、東海道駿河以東の諸国をして革甲二千領を作らしむ、
153
桓武
延暦一〇年一月一八日
791
蝦夷を征せんがため、藤原朝臣真鷲をして東山道諸国の軍士戎具を検閲せしむ、
153
桓武
延暦一〇年一〇月二五日
791
東山・東海二道の諸国に令して、征箭三万四千五百余具を作らしむ、
154
桓武
延暦一一年六月一四日
792
陸奥・出羽・太宰府等辺要の地を除き、諸国に兵士を廃し、健児の制を立て、信濃国に健児百人を置く、
154
桓武
延暦一四年四月一日
795
是より先、小県郡人久米舎人望足、信濃介石川朝臣清主を射て中らず、是日、望足、讃岐国に流さる、
157
桓武
延暦一六年三月一七日
797
信濃の人外従八位下前部綱麻呂、安坂の姓を賜はる、
158
桓武
延暦一六年三月一七日
797
信濃等四国をして造宮のための雇夫を進めしむ、
158
桓武
延暦一六年三月二七日
797
従五位上信濃守笠朝臣江人、民部大輔を兼ぬ、
159
桓武
延暦一六年四月四日
797
従五位上守民部大輔兼行造西寺次官信濃守笠朝臣江人を右京職に遣はして、雑官物を検せしむ、
159
桓武
延暦一六年六月七日
797
信濃国監牧に始めて公廨田を賜ふ、
160
桓武
延暦一八年四月一一日
799
従五位上藤原朝臣継業、大学頭となる、侍従・信濃介故の如し、尋いで兼信濃守となる、
161
桓武
延暦一八年九月一三日
799
伊奈郡阿智駅の駅子、永く調庸を免ぜらる、
161
桓武
延暦一八年一〇月二日
799
左大弁正四位下菅野朝臣真道に信濃の地百町を賜ふ、
166
桓武
延暦一八年一二月五日
799
信濃国の人、外従六位下卦婁真老等、十一人、請ひて須々岐等の姓を賜はふ、
166
桓武
延暦二一年一月一一日
802
信濃等東国の浪人を発して、陸奥の膽沢城に配置す、
168
桓武
延暦二一年八月一四日
802
信濃等諸国の課欠駒は罪を科し馬を徴し、一も免ずる所なからしむ、尋いで馬を徴するを止めて毎疋稲四百束を徴せしむ、
168
桓武
延暦二三年一月二四日
804
従五位下和朝臣弟長、信濃介となる、
169
平城
大同元年一月二八日
806
従五位上坂本朝臣左太気麻呂、信濃介となる、
170
平城
大同二年四月一六日
807
従四位下安倍朝臣兄雄、東山道観察使となる、
170
平城
大同三年五月三日
808
従五位下安倍朝臣真直・外従五位下出雲連広貞等、勅を奉じて、大同類聚方一百巻を撰進す、信濃に伝はりし医方の載録せらるるものあり、
171
平城
大同三年五月二八日
808
従四位上藤原朝臣緒嗣、東山道観察使となる、
174
平城
大同三年六月一日
808
東山道観察使藤原朝臣緒嗣、上表して任に堪へざることを謝す、尋いで再び上表して文武両職を解任せられんことを請ひ、三たび上表して封職を辞せんことを請ふ、
176
平城
大同三年九月二六日
808
東山道諸国の正税出挙のことを定む、
179
平城
大同三年一〇月一三日
808
信濃の水田百八十四町五段余をそれぞれ左右馬寮に充つ、
180
平城
大同四年三月二三日
809
東山道観察使藤原朝臣緒嗣、任地に赴かんとして内裏を辞見す、
182
嵯峨
弘仁二年五月二五日
811
信濃国、白烏を献ず、
183
嵯峨
弘仁三年一二月八日
812
信濃等諸国の課欠駒の価を毎疋稲二百束に改む、
184
嵯峨
弘仁四年五月一〇日
813
少納言従五位下字智王、信濃守を兼ぬ、
185
嵯峨
弘仁四年九月二七日
813
陸奥・出羽両国をして非常に備へんがため、公廨を正税に混合し、之が代わりを信濃・越後両国に於て給せしむ、
185
嵯峨
弘仁六年
815
僧最澄、東国に赴き、上野・下野両国に各一塔を建て、法華経二千部を書写して両塔に収む、信濃大山寺の僧正智、之を助く、また最澄、信濃坂の険阻にして行旅の便なきを見て、広済広拯の二院を建つ、
186
嵯峨
弘仁七年八月二七日
816
信濃国、去年の凶作にて食乏しきを以て、穀一万斛を商布と交易し、窮弊を救はんことを請ひて許さる、
189
嵯峨
弘仁八年五月二一日
817
信濃国飢饉あり、使者を遣はして賑給す、
190
嵯峨
弘仁一一年
820
弘仁式成る、信濃国の正税・公廨乃牧馬・駅馬の事見ゆ、
190
淳和
弘仁一四年九月二四日
823
信濃諸牧の貢馬を武徳殿に牽進す、
192
淳和
天長元年八月二〇日
824
信濃の牧子の苦を救はんがため、課欠駒の直を百束に減じ、監牧一員をして、国司と相共に牧事を検校せしむ、
194
淳和
天長三年二月一一日
826
信濃等の貢馬・騎士等の数を定む、
195
淳和
天長三年三月
826
弾正大弼菅原朝臣清公、信濃守を兼ぬ、
196
淳和
天長五年一月七日
828
従五位下安倍朝臣安仁、信濃介となる、
197
淳和
天長五年九月一七日
828
信濃の貢馬を武徳殿に牽進す、
197
淳和
天長五年
828
従三位紀朝臣百継、信濃守を兼ぬ、
198
淳和
天長六年九月二二日
829
信濃の貢馬を武徳殿に牽進す、
199
淳和
天長七年九月二二日
830
信濃の貢馬を武徳殿に牽進す、
199