長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二 (200頁~)
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年月日
西暦
記事
頁
淳和
天長八年一月七日
831
信濃介安倍朝臣安仁、能治を褒せられ、従五位上に叙せらる、
200
淳和
天長一〇年一月一一日
833
参議従三位南淵朝臣弘貞、信濃守を兼ぬ、
201
仁明
天長一〇年三月二四日
833
従四位上源朝臣弘、信濃守となる、
201
仁明
天長一〇年閏七月二九日
833
弘仁中罪を犯して信濃に配流せられし元興寺僧永継、是日京都に還入ることを許さる、
203
仁明
天長一〇年一一月一日
833
参議従四位下清原真人長谷、信濃守を兼ぬ、尋いで卒す、
203
仁明
承和二年一月一一日
835
正四位下源朝臣弘、再び信濃守となる、
204
仁明
承和二年六月二九日
835
東山・東海両道の河津、渡舟少く橋梁備はらざるを以て、勅して河毎に渡舟二艘を増し、浮橋を造り、布施屋を設けしむ、
205
仁明
承和三年五月二六日
836
小県郡の公田十二町を弾正尹秀良親王に賜ふ、
206
仁明
承和五年九月二九日
838
信濃等十六国、七月以降連日降灰の異を奏す、
206
仁明
承和七年一月三〇日
840
従五位上興世朝臣書主、信濃守となる、
207
仁明
承和七年三月一四日
840
諸国文珠会料不足のため、正税の中より出挙して、その利稲を会料に加へしむ、信濃国は二千束を加ふ、
207
仁明
承和八年一月一三日
841
春宮亮従五位上藤原朝臣貞守、信濃介を兼ぬ、
210
仁明
承和八年二月一三日
841
信濃国地震、公私共に損あり、
210
仁明
承和八年四月五日
841
従五位下紀朝臣綱麻呂、信濃権守となる、
211
仁明
承和九年五月一四日
842
諏方郡無位南方刀美神に従五位下を授く、
211
仁明
承和九年八月一一日
842
従五位下下毛野朝臣文継、信濃介となる、
212
仁明
承和九年一〇月二日
842
無位健御名方富命前八坂刀売神に従五位下を授く、
212
仁明
承和一〇年八月八日
843
信濃国、瑞雲見ゆと奏す、
213
仁明
承和一二年九月二一日
845
撿五畿内七道諸国損田・不堪佃田使等の程限を定む、
213
仁明
承和一三年一月一三日
846
従五位下判宿祢御園、信濃介となる、
214
仁明
嘉祥元年一月一三日
848
参議従四位下小野朝臣篁、信濃守を兼ぬ、
214
仁明
嘉祥元年八月二六日
848
従五位下左伯宿祢雄勝、信濃介となる、
216
仁明
嘉祥二年
849
学問行者、戸隠寺を開くと伝ふ、
216
文徳
嘉祥三年一〇月一五日
850
御名方富命神・健御名方富命前八坂刀売命神に、並びに従五位上を授く、
219
文徳
仁寿元年一月一一日
851
参議正四位下藤原朝臣助、信濃守となる、
219
文徳
仁寿元年一月二七日
851
五畿七道、諸国内の諸神有位無位を論ぜず、等しく正六位上に叙す、
220
文徳
仁寿元年一〇月二七日
851
建御名方富命神・同前八坂刀売命神に、並びに従三位を授く、
221
文徳
仁寿二年一月一五日
852
正五位下久賀朝臣三夏、信濃守となり、従五位下紀朝臣最弟、信濃介となる、
222
文徳
仁寿二年二月二八日
852
清原真人秋雄、信濃介となる、
223
文徳
仁寿三年五月一四日
853
信濃・武蔵に詔して、一切経各一部を書写せしむ、
224
文徳
仁寿三年七月二一日
853
従五位下平朝臣実雄、信濃守となる、
224
文徳
仁寿三年八月二二日
853
健御名方富命神・同前八坂刀売命神、両神の祝に把笏を許す、
225
文徳
斎衡元年一月一六日
854
紀朝臣道茂、信濃介となる、
225
文徳
天安元年二月二三日
857
従五位下藤原朝臣秀道、信濃介となる、
226
文徳
天安二年一月一六日
858
参議従四位上源朝臣多、信濃守となり、従五位下田口朝臣統範、同権介となる、
227
文徳
天安二年五月一一日
858
信濃国の牧監を元の如く二人に復す、
227
清和
天安三年九月一四日
859
従四位下南淵朝臣年名、信濃守となる、
229
清和
貞観元年一月二七日
859
神祇官の生嶋神・足嶋神に並びに従四位上、健御名方富命神に従二位、同前八坂刀売命神に正三位を授く、
231
清和
貞観元年二月一一日
859
建御名方富命に正二位、同前八坂刀売命神に従二位、神祇官の生嶋神・足嶋神に、並びに正四位下、宝宅神に従五位上を授く、
232
清和
貞観元年一二月一四日
859
無位守達神に、従五位下を授く、
233
清和
貞観二年二月五日
860
正六位上馬背神・飄別神・妻科地神・無位駒弓神・出速雄神等に従五位下を授く、
234
清和
貞観二年五月二六日
860
信濃国の人、比叡山の僧慧亮寂す、
234
清和
貞観三年一月一三日
861
散位従五位下橘朝臣安吉雄、信濃権守となり、従五臣下紀朝臣冬雄、同介となる、
242
清和
貞観三年二月七日
861
正六位上国業比売神に従五位下を授く、
243
清和
貞観三年一〇月二八日
861
是より先、信濃の人、壬生稲主、妻の母を殺す、国司断罪、法官覆案す、是日詔して死罪を免じ、遠流に処す、
243
清和
貞観四年一月一三日
862
従四位上在原朝臣行平、信濃守となる、
244
清和
貞観四年三月二〇日
862
埴科郡大領外従七位上金刺舎人正長、小県郡権少領外正八位下他田舎人藤雄、借外従五位下に叙せらる、
245
清和
貞観五年二月一四日
863
従五位下守達神・妻科神・八櫛神に並びに従五位上を授く、
246
清和
貞観五年九月五日
863
諏方郡人金刺舎人貞長、大朝臣の姓を賜はる、
246
清和
貞観六年一月一六日
864
信濃権守橘朝臣安吉雄、信濃守となる、
247
清和
貞観六年二月二日
864
信濃の人、従五位下越後介高橋朝臣文室麻呂卒す、
247
清和
貞観六年三月八日
864
従五位下藤原朝臣是縄、信濃権介となる、
248
清和
貞観六年六月二三日
864
信濃国の勅旨牧の貢馬の期を改定す、
249
清和
貞観七年一月二七日
865
主計頭兼木工権頭従五位上有宗宿祢益門、信濃権守となり、散位従五位下大春日朝臣吉野、同介となる、
249
清和
貞観七年三月一二日
865
従五位上守達神に従四位下を授く、
250
清和
貞観七年三月二三日
865
従五位下馬背神に従四位下を授く、
250
清和
貞観七年六月二六日
865
信濃権守有宗宿祢益門、右相撲司の員となる、
251
清和
貞観七年六月二八日
865
信濃諸牧の格は、料稲を給するを停め、牧内の浪人の徭を以て修造せしむ、
251
清和
貞観七年七月三日
865
建御名方富命神の社田として、諏訪郡水田二段を充つ、
252
清和
貞観七年七月二六日
865
正六位上名立神に従五位下を授く、
252
清和
貞観七年一二月一九日
865
信濃勅旨牧と冷然院諸牧との貢馬の期をそれぞれ八月十五日と十一日とに改む、
252
清和
貞観八年一月七日
866
諏訪郡人太朝臣貞長等に外従五位下を授く、
262
清和
貞観八年二月二日
866
伊奈郡寂光寺・筑摩郡錦織寺・更級郡安養寺・埴科郡屋代寺・佐久郡妙楽寺等、定額寺となる、
262
清和
貞観八年二月七日
866
水内郡の三和・神部の両神、忿怒の心あり、仍りて、国司・講師をして奉幣読経し之を鎮めしむ、
262
清和
貞観八年六月一日
866
無位武水別神に従二位を、無位会津比売神・草奈井比売神に並びに従四位下を授く、
263
清和
貞観九年一月一二日
867
従五位上美濃守源朝臣頴、信濃守となる、
263
清和
貞観九年二月一九日
867
右大臣藤原朝臣良相、筑摩郡大野荘の地百二町二段を貞観寺に施入す、
264
清和
貞観九年三月一一日
867
正二位建御名方富命神に従一位、従二位同前八坂刀売命神に正二位、従四位上馬背神に従三位、正六位上梓水神・須々岐水神に並びに従五位下を授く、
266
清和
貞観九年三月一一日
867
高井郡の人、従八位上物部連善常、山城国紀伊郡に本居を改む、
267
清和
貞観九年三月二六日
867
従二位武水別神を官社に列す、
267
清和
貞観九年八月一五日
867
信濃諸牧の貢馬を紫宸殿に牽進す、
268
清和
貞観一〇年一月一六日
868
従五位下大外記滋野朝臣恒蔭、信濃介となる、
268
清和
貞観一〇年三月九日
868
従五位下八県宿祢命神に正五位下を授く、
269
清和
貞観一〇年八月一五日
868
信濃勅旨牧の貢馬を紫宸殿に牽進す、
269
清和
貞観一一年二月一六日
869
従五位上藤原朝臣水谷、信濃権守となる、
270
清和
貞観一一年八月一五日
869
信濃諸牧の貢馬を紫宸殿に牽進す、
270
清和
貞観一二年一月二五日
870
従五位上滋野朝臣善根、信濃守となり、従四位下興基王、同権守となる、
270
清和
貞観一二年三月三〇日
870
散位従五位下菅原朝臣峰嗣卒す、父出雲朝臣広貞、嘗て信濃権守たり、
271
清和
貞観一三年六月一三日
871
信濃・上野貢馬使の多く雑色人を率ゐて公乗を用ふるを禁ず、
272
清和
貞観一三年九月八日
871
元興寺伝燈大法師位賢護の請により、一万三千画仏像一鋪を五畿七道諸国に安置せしむ、
274
清和
貞観一三年
871
紀朝臣有常、信濃権守となる、
276
清和
貞観一五年四月五日
873
従五位下出早雄神に従五位上を、正六位上塩野神・和世田神に、並びに従五位下を授く、
277
清和
貞観一五年四月二一日
873
信濃権介左伯宿祢子房の女、皇子長鑑・長頼を生む、是日、長鑑源姓を賜はりて臣列に入り、後に長頼また臣列に入る、
277
清和
貞観一六年一月一五日
874
従四位下相模守在原朝臣守平、信濃守となる、
280
清和
貞観一八年一月二六日
876
信濃諸牧の牧格の破損亡失多きを以て、牧監等をして一向二撿校せしむ、
281
清和
貞観一八年八月二五日
876
神祇官陰陽寮火災の徴ありと奏するを以て、是日中臣・斉部両氏の六位以下を五畿七道諸国の神社に遣はし、幣を班たしむ、
282
陽成
元慶元年一月三日
877
従四位下信濃守在原朝臣守平、従四位上に、従五位下信濃権介左伯宿祢子房、従五位上に叙せらる、
283
陽成
元慶元年九月二五日
877
中臣・斉部両氏人を五畿七道諸国の神社に遣はして幣を班たしむ、
284
陽成
元慶二年一月一一日
878
民部大輔正五位下源朝臣包、信濃守となり、散位従五位下藤原朝臣恒実、同権介となる、
287
陽成
元慶二年二月七日
878
従五位上出速雄神に、正五位下を授く、
287
陽成
元慶二年五月九日
878
信濃国をして梓弓二百張を献ぜしむ、
288
陽成
元慶二年六月二一日
878
東海・東山両道の諸国をして勇敢軽鋭の者を択び、出羽国の奏請を待ち、機に応じて奔り赴かしむ、
288
陽成
元慶二年九月一六日
878
正六位上蓼科神に従五位下を授く、
289
陽成
元慶三年一月七日
879
信濃介橘朝臣茂蔭、従五位上に叙せらる、
289
陽成
元慶三年九月四日
879
県坂山岑を以て信濃・美濃両国の境界と定む、
290
陽成
元慶四年八月一五日
880
信濃諸牧の貢馬を紫宸殿に牽進す、
291
陽成
元慶五年一〇月九日
881
正六位上地生神・御厩中央御玉神に、並びに従五位下を授く、
291
陽成
元慶五年一〇月一七日
881
伊那郡の観音寺、天台別院となる、
292
陽成
元慶五年一二月二八日
881
正六位上槻井泉神に従五位下を授く、
292
陽成
元慶七年八月一五日
883
信濃諸牧の貢馬を紫宸殿に牽進す、
292
光孝
元慶八年二月二三日
884
信濃守藤原朝臣有蔭、正五位下を授けらる、
293
光孝
元慶八年三月九日
884
従五位下藤原朝臣有令、信濃介となる、
293
光孝
元慶八年五月二六日
884
従四位下橘朝臣良基、信濃守となる、
294
光孝
元慶八年五月二九日
884
信濃権守従五位下源朝臣近善、従四位上に叙せらる、
295
光孝
元慶八年八月一五日
884
信濃諸牧の貢馬を紫宸殿に牽進す、
295
光孝
元慶八年九月二日
884
信濃国、木連理の瑞を獲たりと言上す、明年正月一日朝賀の庭に之を奏す、
296
光孝
仁和元年一月一六日
885
従五位下信濃権介良岑朝臣唯実、正介となる、
297
光孝
仁和元年二月八日
885
信濃国に、乗田卅町を以て国厨佃を営むことを許す、
297
光孝
仁和元年四月五日
885
是より先、筑摩郡の人辛犬甘秋子、坂名井子縄麻呂等の非行を太政官に訴ふ、詔使下向推問して子縄麻呂等を禁ずるに、信濃守橘朝臣良基これに対捍す、是日、太政官、符を下して国司を譴責す、尋いで良基を刑部省に下して、その罪を断ぜしむ、
298