長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十一 (1頁~)
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後奈良
天文元年正月一日
1532
諏訪社上社、神使御頭を定む、
1
後奈良
天文元年五月六日
1532
善光寺十穀僧某、山科言継を訪ひ、同寺仮名書勧進帳を真名書に攻めんことを請ふ、尋で、言継、之を改書す、 善光寺に関する草子七人びくに及び信濃に関する物語・御伽草子、おたかの本し物くさ太郎・しみづ吉高・からいとさうし・ふじの人あなさうし、
1
後奈良
天文元年
1532
甲斐浦信本、諏訪勢を頼み、武田信虎に叛す、 仍つて、信虎、信本を同国浦城に攻めて、之を降す、
34
後奈良
天文元年一二月六日
1532
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
34
後奈良
天文二年正月一日
1533
諏訪社上社、神使御頭を定む、
36
後奈良
天文二年五月五日
1533
山城醍醐寺理性院厳助、伊那郡文永寺に赴かんとし、是日、京都を発す、
36
後奈良
天文二年五月二〇日
1533
理性院厳助、伊那郡飯田に至る、尋で、天竜川洪水のため、同地に滞留す、
38
後奈良
天文二年五月二三日
1533
理性院厳助、文永寺に至り、同寺に滞留す、
39
後奈良
天文二年五月二八日
1533
理性院厳助、文永寺密乗院に僧宗詢書写の和歌を写す、
41
後奈良
天文二年六月一日
1533
知久頼元、文永寺に到り、理性院厳助の下向を謝す、
41
後奈良
天文二年六月三日
1533
理性院厳助、文永寺に於て、護摩供を始む、尋で、聖天供を始む、
42
後奈良
天文二年六月一五日
1533
文永寺宗信、理性院厳助より印可を受く、
44
後奈良
天文二年六月二一日
1533
理性院厳助、文永寺宗信の請により、御影供を行ふ、
44
後奈良
天文二年六月二三日
1533
能登瑞源寺住持韻薫、竜門、安曇郡霊松寺に住し、是日、寂す、
46
後奈良
天文二年六月二五日
1533
是より先、越後守護代長尾為景、同国守護上杉定実の将宇佐美四郎右衛門尉を攻めて敗績す、是日、定実の党上条定憲、四郎右衛門尉の戦勝を賀し、併せて、信濃の動静を尋ぬ、 定実の党長尾房長、信濃の雑説既に議定せることを広瀬衆に報ず、
49
後奈良
天文二年六月二六日
1533
理性院厳助、伊那郡神峯に赴く、
51
後奈良
天文二年七月六日
1533
文永寺普門坊、寂す、
53
後奈良
天文二年七月七日
1533
理性院厳助、文永寺に当座連歌会を行ふ、
53
後奈良
天文二年七月一一日
1533
井上尼公、文永寺に於て、玄春の追善供養を修す、
54
後奈良
天文二年七月一六日
1533
文永寺に於て、法華懺法あり、
55
後奈良
天文二年七月二三日
1533
府中小笠原長棟の軍、伊那郡に攻入り、是日、知久頼元の軍と対陣す、
56
後奈良
天文二年七月二六日
1533
理性院厳助の従者慶心善光寺参詣のため、文永持を発す、
57
後奈良
天文二年七月二八日
1533
知久頼元・高遠諏訪頼継の軍、府中小笠原長棟の軍と戦ふ、尋で、両軍、兵を班す、
57
後奈良
天文二年八月一日
1533
諏訪頼満・同瀬継、神峯に到り、知久頼元に合力を謝す、
58
後奈良
天文二年八月三日
1533
理性院厳助、諏訪頼継の請に依り、手蹟を与ふ、
59
後奈良
天文二年八月六日
1533
伊那郡座光寺遊阿弥陀仏、神峯に知久頼元を訪ふ、
59
後奈良
天文二年八月一八日
1533
小笠原長棟の軍、再び伊那郡に攻入り、是日、知久頼元の軍と天龍川に対峙す、尋で、長棟の軍、退く、
61
後奈良
天文二年八月二〇日
1533
理性院厳助、知久頼元の請に依り、新図の歌仙絵に賛歌を書き与ふ、
61
後奈良
天文二年八月二一日
1533
文永寺、法会のため、職衆の声明稽古を始む、尋で、結縁潅頂の準備を進む、
62
後奈良
天文二年八月二五日
1533
理性院厳助、諏訪郡仏法寺住持某等の需に依り、手蹟を与ふ、
64
後奈良
天文二年九月三日
1533
文永寺、先師頼椿の忌日法会を修す、
64
後奈良
天文二年九月六日
1533
関守氏、伊那郡伊賀良庄関郷に二善寺を再興す、
65
後奈良
天文二年九月七日
1533
理性院厳助、伊那郡安養寺に遊ぶ、
66
後奈良
天文二年九月一〇日
1533
理性院厳助、知久修理進の需に依り、三社託宣を書し与ふ、
67
後奈良
天文二年九月一四日
1533
伊那郡に大洪水あり、
67
後奈良
天文二年九月一七日
1533
知久頼元・同頼氏、文永寺に、理性院厳助を訪ふ、
68
後奈良
天文二年九月二一日
1533
理性院厳助、大河闍梨となり、文永寺に結縁潅頂を行ふ、
68
後奈良
天文二年九月二八日
1533
文永寺宗信の母、理性院厳助に斎を進む、
71
後奈良
天文二年一〇月一日
1533
理性院厳助の帰洛に先立ち、文永寺宗信等、厳助に物を贈る、尋で、知久頼元・諏訪頼継等も物を贈る、
71
後奈良
天文二年一〇月三日
1533
理性院厳助、帰洛のため、文永寺を発し、伊那郡下条に到る、尋で、同郡波合に着す、
72
後奈良
天文二年一〇月五日
1533
理性院厳助、伊那郡波合を発ち、美濃上村多聞坊に着す、尋で、京都に帰着す、
73
後奈良
天文二年一〇月二八日
1533
諏訪社上社神長守矢頼真の嫡子犬太郎、信実、生る、
74
後奈良
天文二年一一月二九日
1533
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
74
後奈良
天文三年正月一日
1534
諏訪社上社、神使御頭を定む、
76
後奈良
天文三年五月七日
1534
本願寺光教、証如、阿祢陀如来画像に裏書を書し、之を水内郡浄専坊浄賢に授く、
76
後奈良
天文三年一一月九日
1534
伊那郡文永寺伝法潅頂会を行ひ、仙耀、大阿闍梨となる、
77
後奈良
天文三年一二月五日
1534
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
78
後奈良
天文三年
1534
諏訪頼満、出家す、
80
後奈良
天文四年正月一日
1535
諏訪社上社、神使御頭を定む、
80
後奈良
天文四年正月二四日
1535
佐久郡正安寺住持慶参、玄室、寂す、尋で、英文、月舟、同寺住持となる、
81
後奈良
天文四年二月一三日
1535
山城東福寺住持善叢、茂彦、木曽定勝寺住持聖贇玉林、の請に応じて、その師同寺前住恵珍貴山、の頂相に賛す、
82
後奈良
天文四年
1535
佐久郡追分諏訪社大般若経の修補、成る、
84
後奈良
天文四年八月一日
1535
諏訪郡慈雲寺・木曽長福寺・同興禅寺住持宗最、一機、寂す、
88
後奈良
天文四年八月一〇日
1535
伴野貞秀、紀伊高野山蓮華定院を、その宿坊と定む、
89
後奈良
天文四年九月一八日
1535
武田信虎、諏訪碧雲斎頼満、と堺川北岸に会し、和睦す、
90
後奈良
天文四年一一月一九日
1535
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
91
後奈良
天文四年一二月二日
1535
伊那郡竜門寺開山・前妙心寺住持瑞郁、文叔、寂す、
92
後奈良
天文四年
1535
信濃の僧源順、越後魚沼郡に、法華経巻を埋納す、
95
後奈良
天文五年正月一日
1536
諏訪社上社、神使御頭を定む、
96
後奈良
天文五年
1536
佐久郡追分諏訪社大般若経の修補、成る、 本年五月並にこの時代、同社大般若経の修補成る、
96