長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻十一 (400頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後奈良天文一七年八月二二日1548諏訪社上社の宝鈴、盗まる、402
後奈良天文一七年1548武田晴信、諏訪社上社神長守矢頼真をして、同社神長職を安堵せしむ、402
後奈良天文一七年九月九日1548伊那郡文永寺厳詢等、山城醍醐寺神人の役を勤む、403
後奈良天文一七年九月一一日1548是より先、武田晴信の将小山田信有、佐久郡田口城を攻めんとし、却つて敵のため内山城に囲まる、是日、晴信、諏訪を発して佐久郡に入り、前山城を陥る、尋で、同郡の諸城を陥る、403
後奈良天文一七年一〇月四日1548武田晴信、筑摩郡村井城の普請を始む、406
後奈良天文一七年一〇月一四日1548武田晴信、某に、筑摩郡内田・小池両大宮祢宜職を宛行ふ、407
後奈良天文一七年一〇月一四日1548武田晴信、千石帯刀左衛門尉をして、その本領を安堵せしむ、尋で、筑摩郡胡桃沢の地を宛行ふ、407
後奈良天文一七年一〇月二三日1548伊那郡文永寺厳詢、山城醍醐寺を逐電し、同国清水寺に隠る、409
後奈良天文一七年一一月一四日1548武田晴廉、千野左兵衛尉をして、諏訪郡西方衆を追放し、その所領を地の被官人等に知行せしむ、409
後奈良天文一七年一二月七日1548諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、410
後奈良天文一七年1548諏訪社下社造宮あり、水内郡尾崎郷等、同社秋宮一之御柱造宮を勤む、412
後奈良天文一八年正月一日1549諏訪社上社、神使御頭を定む、413
後奈良天文一八年正月八日1549長坂虎房、諏訪郡高嶋城に入る、413
後奈良天文一八年正月八日1549伊那郡文永寺宗然・同厳詢、禁中太元護摩に参仕す、413
後奈良天文一八年二月一日1549安曇郡穂高社、同社式年造宮にあたり、同郡諸郷の所役を注す、414
後奈良天文一八年二月八日1549伊那郡文永寺宗然、山城醍醐寺理性院厳助より、伝法潅頂を受く、419
後奈良天文一八年三月一日1549武田晴信、佐久郡望月源三郎に、所領を宛行ふ、420
後奈良天文一八年三月六日1549相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、禁裡聖天法楽和漢聯句会に列す、421
後奈良天文一八年三月八日1549武田晴信、千野靭負尉をして、諏訪右衛門尉の本領諏訪郡尾口郷を同人に還付せしめ、替地として、同郡有賀郷を宛行ふ、421
後奈良天文一八年三月一七日1549僧舜栄、王室、小県郡定津院住持となる、422
後奈良天文一八年四月三日1549武田晴信の軍、佐久郡春日城を攻めて之を破る、423
後奈良天文一八年五月二九日1549佐久郡望月新六、武田晴信に属し、是日、晴信に出仕す、423
後奈良天文一八年六月一日1549佐久郡伴野信豊、武田晴信に出仕す、424
後奈良天文一八年六月一日1549武田晴信、望月信雅をして、望月氏の惣領たらしむ、424
後奈良天文一八年六月四日1549諏訪郡仏法寺尊朝、真言秘密の印の次第等を註す、424
後奈良天文一八年七月九日1549武田晴信、甲府を発し、諏訪郡高嶋城に入る、尋で、伊那郡箕輪城に到り、鍬立を行ふ、426
後奈良天文一八年八月二三日1549武田晴信、浜右近進に、諏訪郡真志野の地を宛行ふ、426
後奈良天文一八年八月二六日1549武田晴信、伊那郡箕輪より、諏訪郡高嶋・上原を経て、是日、佐久郡桜井山城に入る、427
後奈良天文一八年九月四日1549武田晴信、佐久郡平原城に放火す、尋で、甲府に帰陣す、427
後奈良天文一八年九月三〇日1549伊那郡藤沢頼親、甲府に到る、428
後奈良天文一八年一〇月二日1549武田晴信、諏訪清三の、去年小笠原長時に与せる罪を許し、清三をして、本領を安堵せしむ、428
後奈良天文一八年一〇月八日1549小笠原長棟、卒す、429
後奈良天文一八年一一月一七日1549是より先、木曽定勝寺、洪鐘を鋳る、是日、同寺住持聖贇、玉林、その銘を作る、434
後奈良天文一八年1549諏訪社上社神長守矢頼真、諏訪郡高嶋城々将長坂虎房に、乱中につき神納物なく、神事成り難きを愁訴す、435
後奈良天文一八年一二月一二日1549諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、438
後奈良天文一八年一二月一六日1549佐久郡伴野信豊、武田晴信に出仕す、439
後奈良天文一八年1549小笠原信貴、宗販遅伝、を伊那郡開善寺住持に請じ、同寺を中興せしむ、440
後奈良天文一九年正月一日1550諏訪社上社、神使御頭を定む、441
後奈良天文一九年正月八日1550伊那郡文永寺宗然・同厳詢、禁中太元護摩に参仕す、442
後奈良天文一九年正月二九日1550伊那郡文永寺宗然・同厳詢、丹波山国庄北村某邸に於て、仏事を修す、443
後奈良天文一九年二月七日1550相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、永原重隆の葬礼に、起龕仏事を勤む、443
後奈良天文一九年二月一七日1550宗忍、埴科郡福徳寺に於て、九条錫杖略注を書写す、444
後奈良天文一九年1550仁科某、安曇郡等々力郷内の地を、井口帯刀に宛行ふ、444
後奈良天文一九年四月一三日1550先に盗難に遭ひし諏訪社上社御宝鈴、同社に還る、445
後奈良天文一九年四月二一日1550武田晴信の将高白斎、諏訪郡高嶋城に到る、445
後奈良天文一九年四月二五日1550相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、禁裏和漢聯句会に列す、446
後奈良天文一九年四月二八日1550相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、禁裏和漢聯句会及び当座和歌会に列す、447
後奈良天文一九年五月二日1550山城醍醐寺理性院厳助、伊那郡文永寺に下向のため、村上坂木衆と共に、京都を発す、448
後奈良天文一九年五月二〇日1550諏訪社下社、同社明年常楽会頭役を、筑摩郡洗馬郷に充つ、449
後奈良天文一九年五月二一日1550是より先、将軍足利義晴薨ず、是日、山城慈照寺に葬礼を行ふ、幕府、相国寺雲頂院雲沢軒主集尭仁如、をして、掛真仏事を勤めしむ、451
後奈良天文一九年五月二六日1550幕府、足利義晴の七々日忌を相国寺に営み、同寺雲頂院雲沢軒主集尭仁如、をして、拈香仏事を勤めしむ、452
後奈良天文一九年閏五月六日1550山城醍醐寺理性院厳助、伊那郡文永寺密乗院に於て、僧宗然に諸尊法伝援を始む、453
後奈良天文一九年六月一一日1550木曽義在、木曽若宮社に、長野志ゝごの内の地を寄進す、 飛騨三木直頼、木曽に兵糧米を需め、木曽氏より馬を贈らる、 義在の書状459
後奈良天文一九年六月二七日1550某、伊那郡文永寺密乗院に於て、頼真の書状を書写す、 某、密乗院に於て、宗詢筆大草宮の和歌を書写す、462
後奈良天文一九年七月二日1550武田晴信、真田幸隆に、小県郡諏訪形等の地を宛行ふ、463
後奈良天文一九年七月五日1550小笠原長時、将軍足利義輝の代替を賀し、太刀・馬等を贈る、尋で、義輝、之に答謝す、464
後奈良天文一九年七月一五日1550武田晴信、信濃府中に攻入り、小笠原長時を筑摩郡林城に破る、468
後奈良天文一九年九月四日1550山城醍醐寺理性院厳助、伊那郡文永寺に結縁潅頂を行ふ、471
後奈良天文一九年九月九日1550武田晴信、村上義清を、小県郡砥石城に攻めて敗績す、尋で、晴信、兵を諏訪郡に班す、472
後奈良天文一九年一〇月二日1550山城醍醐寺理性院厳助、伊那郡文永寺を発して帰洛の途につく、474
後奈良天文一九年一〇月二三日1550是より先、小笠原長時、村上義清の援を得て、安曇郡平瀬に兵を進む、是日、武田晴信、之を討たんがため、甲斐中下条に陣を進む、475
後奈良天文一九年一一月五日1550冬至、相国寺秉払を行ふ、同寺住持集尭、仁如、頭首五座のうち、後堂首座寮の部の問答法語を代作す、481
後奈良天文一九年一一月一二日1550相国寺住持集尭、仁如、上堂して、同寺冬至秉払の頭首同寺勝定院大梅軒の徒法玉智岳、に謝語を述ぶ、482
後奈良天文一九年一一月一三日1550村上義清、佐久郡桜井城を攻めて、之を焼く483
後奈良天文一九年一一月二〇日1550諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、484
後奈良天文一九年一二月二日1550武田晴信、存弁をして、佐久郡安養寺を、董せしむ、485
後奈良天文一九年一二月一四日1550武田晴信の将、高白斎筑摩郡深志城に入る、486
後奈良天文一九年1550僧徳忠、節香、佐久郡常源寺を開く、486
後奈良天文二〇年正月一日1532諏訪社上社、神使御頭を定む、487
後奈良天文二〇年正月八日1551伊那郡文永寺宗然、禁中太元護摩に参仕す、487
後奈良天文二〇年二月五日1551武田晴信、甲斐一宮に信濃府中攻略の成れるを謝し、社領を寄進す、488
後奈良天文二〇年二月一〇日1551下諏訪の某、甲府に到る、489
後奈良天文二〇年二月一四日1551仁科某、大厩兵五をして、白荷の通過を取締らしむ、489
後奈良天文二〇年三月二日1551武田晴信、本郷孫三郎に、板垣惣領分内の地等を宛行ふ、490
後奈良天文二〇年三月二八日1551武田晴信、大井貞清をして、佐久郡内山城を守らしむ、是日、貞清着城す、491
後奈良天文二〇年五月二六日1551真田幸隆、小県郡砥石城を陥る、491
後奈良天文二〇年六月二八日1551武田晴信、恩賞を以て、保科正俊の参陣を誘ふ、492
後奈良天文二〇年七月一四日1551相国寺兵燬に焼く、同寺住持集尭、仁如、詩を賦して之を嗟歎す、492
後奈良天文二〇年七月二〇日1551佐久郡岩尾行吉、甲斐若神子に到り、武田晴信に出仕す、493
後奈良天文二〇年七月二一日1551更級郡布施郷の僧秀弘、山城上醍醐寂静院谷内に浄光坊を開き、その置目を定む、493
後奈良天文二〇年七月三〇日1551諏訪社上社、佐久郡田口郷を、同社明年御射山祭頭役に定む、495
後奈良天文二〇年八月一日1551武田晴信、佐久郡桜井山城に陣を進む、尋で、同寺岩村田城を普請す、496
後奈良天文二〇年九月二〇日1551武田晴信、上原昌辰小山田備中守、をして、大井貞清に替り、重ねて佐久郡内山城に入らしむ、496
後奈良天文二〇年1551長坂虎房、千野靭負尉をして、諏訪郡有賀郷内の年貢を領せしむ、 虎房、諏訪社上社祢宜矢崎某に書を遺る、497
後奈良天文二〇年一〇月一四日1551望月信雅、佐久郡矢嶋並に蓬田の内の地を、紀伊高野山蓮華定院に寄進す、 望月信雅・同宗齢、高野山蓮華定院に音信を通ず、499