長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十一 (300頁~)
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後奈良
天文一四年四月一七日
1545
武田晴信、杖突峠より伊那郡に攻入り、諏訪頼継を同郡高遠に攻めて、之を破る、尋で、同郡箕輪城に逼る、
304
後奈良
天文一四年五月一三日
1545
伊那郡文永寺宗信等、山城醍醐寺より信濃へ帰る、
306
後奈良
天文一四年六月一日
1545
是より先、小笠原長時、伊那郡竜ヶ崎城に拠りて藤沢頼親を援く、是日、武田晴信の将板垣信方等、同城を攻めて、之を陥る、尋で、箕輪城も陥ち、頼親、晴信に降る、
307
後奈良
天文一四年六月一三日
1545
武田晴信、筑摩郡塩尻に陣を進む、
310
後奈良
天文一四年一〇月一八日
1545
山城醍醐寺に、岩間八講あり、伊那郡文永寺宗然、之に列す、
311
後奈良
天文一四年一〇月二一日
1545
塩田真興、紀伊高野山蓮華定院に月牌料を送る、 真興、蓮華定院に、月牌料を送る、
312
後奈良
天文一四年一〇月二八日
1545
是より先、藤沢頼親、武田晴信に随ひ、駿河に出陣す、是日、頼親、帰陣す、
314
後奈良
天文一四年一一月二四日
1545
某、南安曇郡梓川村氷室の三大師画像に裏書を書す、
314
後奈良
天文一四年一二月一三日
1545
武田晴信、守矢神平に遍諱を与ふ、
315
後奈良
天文一四年一二月二二日
1545
諏訪湖上に諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
315
後奈良
天文一五年正月一日
1546
諏訪社上社、神使御頭を定む、
317
後奈良
天文一五年正月八日
1546
伊那郡文永寺宗然、禁中太元護摩に参仕す、
317
後奈良
天文一五年二月三日
1546
諏訪社上社神長守矢頼真、諏訪郡大熊より、同郡高部へ帰る、
318
後奈良
天文一五年二月八日
1546
諏訪満茂、善六姓闕く、に所領を宛行ひ、併せて、諏訪頼継に奉公すべきを依頼す、
318
後奈良
天文一五年三月二七日
1546
武田晴信、諏訪郡安国寺の内応を誘ふ、
319
後奈良
天文一五年五月二十日
1546
是より先、武田晴信、佐久郡内山城を攻む、是日、城主大井貞清、破れて城を開き、同郡野沢に逃る、 武田晴信、市河右馬助等をして、敵に備へしめ、野沢康棟、高野山蓮華定院に音信を通ず、
319
後奈良
天文一五年七月一八日
1546
武田晴信の将上原昌辰、佐久郡内山城に入る、
323
後奈良
天文一五年七月一八日
1546
小県郡定津院の宝篋印塔、成る、
323
後奈良
天文一五年八月三日
1546
高井郡笠原本誓寺性祐、寂す、
323
後奈良
天文一五年八月九日
1546
武田晴信、保科掃部丞に、伊那郡内伝馬五疋分を免許す、
324
後奈良
天文一五年八月一九日
1546
武田晴信、三条西実澄等に、明年より信濃に於て、禁裏料所一万疋を献ずべきを申入る、
324
後奈良
天文一五年八月二八日
1546
諏訪満隆、自害す、
325
後奈良
天文一五年
1546
高井郡小菅権現社の脇立、成る、 小菅権現社の木造龕の銘
325
後奈良
天文一五年
1546
武田晴信、諏訪社上社に、伊那郡内の地を寄進す、
326
後奈良
天文一五年一一月二九日
1546
是より先、諏訪社上社神使千野宗光、同社三月御左口神付の費を懈怠するに依り、神罰を受く、是日、宗光、同社神長守矢頼真にその罪を謝す、
326
後奈良
天文一五年
1546
伊那郡文永寺宗然、山城醍醐寺を退く、尋で、また、同寺に帰住す、
328
後奈良
天文一六年正月一日
1547
諏訪社上社、神使御頭を定む、
328
後奈良
天文一六年正月八日
1547
伊那郡文永寺宗然、禁中太元護摩に参仕す、
329
後奈良
天文一六年正月一一日
1547
諏訪社上社大祝諏訪頼忠、去年諏訪大明神御渡なきことを、幕府に注進す、尋で、幕府、同社をして、之を祈祷せしむ、
329
後奈良
天文一六年二月二三日
1547
幕府、前相国寺住持集尭仁如、を、南禅寺住持となす、
331
後奈良
天文一六年三月八日
1547
武田晴信、伊那郡高遠城の鍬立を行ふ、
331
後奈良
天文一六年三月九日
1547
是より先、諏訪社上社神使御頭松嶋満清、乱後に依り、役料の減免を同社神長守矢頼真に請ふて、容れられず、是日、清満、その進済を約す、
331
後奈良
天文一六年
1547
佐久郡岩村田僧祐尊、涅槃経を書写す、 岩村田善珠院僧某、大宝績経を書写す、
333
後奈良
天文一六年四月一六日
1547
武田晴信、佐久郡大井貞清父子の出仕を促す、尋で、同父子、甲府に到る、
334
後奈良
天文一六年
1547
武田晴信、その家法を定め、甲斐・信濃等に公布す、
334
後奈良
天文一六年
1547
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、同門疏を作りて、玄津月航、の山城妙心寺住持となるを賀す、
345
後奈良
天文一六年閏七月二五日
1547
武田晴信、佐久郡正安寺に、制札を掲ぐ、
347
後奈良
天文一六年八月一一日
1547
武田晴信、佐久郡志賀城を攻めて之を陥る、城将笠原清繁父子及び援軍上野菅原城主高田憲頼等、敗死す、 佐久及び小県郡の人依田隆昌・成就寺澄意・海野政吉・小野沢守儀・森山成繁・同満繁・市河道喜等、高野山蓮華定院の音信を謝す、
348
後奈良
天文一六年九月三日
1547
水内郡葛山落合神社本殿の修理、成る、 伊那郡遠照寺釈迦堂の墨書銘、
361
後奈良
天文一六年九月二八日
1547
武田晴信、保科正俊に諏訪郡栗林の地を宛行ふ、
362
後奈良
天文一六年一一月一七日
1547
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
363
後奈良
天文一六年一二月三〇日
1547
伊那郡文永寺宗信、寂す、
364
後奈良
天文一七年正月一日
1548
諏訪社上社、神使御頭を定む、
365
後奈良
天文一七年正月八日
1548
伊那郡文永寺宗然、禁中太元護摩に参仕す、また、同寺賢純、壇所に祇候す、
366
後奈良
天文一七年正月一四日
1548
伊那郡文永寺厳詢、山城醍醐寺理性院に入る、
366
後奈良
天文一七年二月三日
1548
諏訪社上社前神長守矢頼真、従三位に叙せらる、
367
後奈良
天文一七年二月一四日
1548
武田晴信、村上義清と小県郡上田原に戦ひて敗る、晴信傷き、板垣信方等部将、多く討死す、
367
後奈良
天文一七年
1548
伊那郡文永寺宗然、山城醍醐寺上衆年預に、同厳詢、三昧堂年預となる、
370
後奈良
天文一七年三月一日
1548
諏訪社上社精進始なし、
371
後奈良
天文一七年三月六日
1548
小県郡定津院住持玄岱、海秀、寂す、
371
後奈良
天文一七年
1548
室住玄蕃允、兄板垣信方に代り、諏訪郡上原城に在城す、
374
後奈良
天文一七年四月五日
1548
諏訪頼継、甲府より伊那郡高遠に帰る、
375
後奈良
天文一七年四月五日
1548
小笠原長時、村上義清等と共に、諏訪郡下宮を侵す、尋で、また侵す、
375
後奈良
天文一七年四月一五日
1548
諏訪社上社御柱引、
375
後奈良
天文一七年四月二一日
1548
武田晴信、佐久郡松原社をして、同社領を安堵せしめ、祭礼を懈怠することなからしむ、
376
後奈良
天文一七年四月二五日
1548
村上義清の兵、佐久郡内山城に放火す、
376
後奈良
天文一七年五月一一日
1548
伊那郡高遠の諏訪頼継、保科因幡をして、所領を安堵せしむ、
377
後奈良
天文一七年五月一七日
1548
武田晴信、佐久郡布引城の鍬立を行ふ、
377
後奈良
天文一七年六月二四日
1548
武田晴信、依田宮内大輔に、佐久郡田口の地を宛行ふ、
378
後奈良
天文一七年七月一九日
1548
是より先、諏訪郡西方衆矢嶋・花岡等、小笠原長時に通じ、武田晴信に叛す、仍りて晴信、諏訪郡に出陣す、是日、晴信長時と筑摩郡塩尻峠に戦ひて、之を破る、
379
後奈良
天文一七年八月六日
1548
山城醍醐寺行樹院に於て、澄恵卅三回忌曼茶羅供あり、伊那郡文永寺宗然等、職衆を勤む、
392
後奈良
天文一七年八月一〇日
1548
武田晴信、諏訪社上社に、太刀を奉納し、武運を祈る、
393
後奈良
天文一七年八月一一日
1548
武田晴信、市川右馬助等に、佐久郡瀬戸の地を宛行ふ、
393
後奈良
天文一七年八月一一日
1548
武田晴信、長坂虎房をして、諏訪郡上原に在城せしむ、
394
後奈良
天文一七年八月一三日
1548
武田晴信、佐久郡田口領内に、制札を掲ぐ、 晴信、某地に制札を掲ぐ、
395
後奈良
天文一七年八月一七日
1548
佐久郡依田春賢、紀伊高野山蓮華定院に音信を通ず、 佐久郡の人依田慶珍・瀬戸是慶・神宮寺清雅・下村方利等、高野山蓮華定院に音信を通ず、
396