長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十一 (500頁~)
1頁~
100頁~
200頁~
300頁~
400頁~
500頁~
600頁~
「信濃史料」巻別収録年代に戻る
・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇
年月日
西暦
記事
頁
後奈良
天文二〇年一〇月二四日
1551
武田晴信、安曇郡平瀬城を攻めて、之を陥る、
502
後奈良
天文二〇年一〇月二七日
1551
武田晴信の兵、安曇郡小岩岳城を攻めて放火す、尋で、晴信、諏訪郡高嶋城に兵を班し、甲府に帰陣す、
504
後奈良
天文二〇年一一月二二日
1551
武田晴信の将飯富藤蔵、村上義清の被官東条某を討捕る、
504
後奈良
天文二〇年
1551
伊那郡高遠諏訪頼継、一瀬市村に同郡宮所の内一瀬の地を宛行ふ、
505
後奈良
天文二〇年
1551
武田晴信の伊那郡攻略に先だち、その将原虎頭、佐久郡松原社に、その戦勝を祈る、
505
後奈良
天文二一年正月一日
1552
諏訪社上社、神使御頭を定む、
507
後奈良
天文二一年正月一日
1552
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
507
後奈良
天文二一年正月一八日
1552
望月信雅、村田新九郎に偏諱を与ふ、
508
後奈良
天文二一年正月二七日
1552
武田晴信、伊那郡高遠諏訪頼継をして、甲府に自刃せしむ、
509
後奈良
天文二一年三月七日
1552
武田晴信、諏訪頼継の遺臣高遠近習衆をして、知行を安堵せしむ、
511
後奈良
天文二一年
1552
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、相国寺より、播磨盛厳寺に遷居す、
512
後奈良
天文二一年四月四日
1552
長尾景虎、本誓寺超賢をして、加賀等の一向宗門徒を諭し、北陸の通路を開かしむ、
512
後奈良
天文二一年四月二〇日
1552
佐久郡金剛寿院〓永、紀伊高野山蓮華定院を、同郡の宿坊と定む、
516
後奈良
天文二一年
1552
本願寺光寿、証如、親鸞の木像に銘を書し、水内郡長沼西厳寺に授く、
517
後奈良
天文二一年
1552
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、井上房永の請に応じて、同寺慈照院宜竹軒主周麟景徐、の頂相に、その自賛の語を書す、
518
後奈良
天文二一年五月五日
1552
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、播磨盛厳寺の徒真賢明甫、に道号を与へ、その説を作る、
519
後奈良
天文二一年五月八日
1552
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、播磨盛厳寺の徒宗久良叔、の請に応じて、道号の説を作る、
520
後奈良
天文二一年
1552
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、播磨盛厳寺住持真香梅心、の請に応じて、道号の説を作る、
521
後奈良
天文二一年六月八日
1552
武田晴信、筑摩郡熊井城の鍬立を行ふ、
524
後奈良
天文二一年六月二八日
1552
矢嶋重綱・同政綱、諏訪社上社今年御射山祭神事の御穀の免除を、同社神長守矢頼真に請ふ、
524
後奈良
天文二一年
1552
小笠原長時、山城建仁寺禅居庵の摩利支天に、戦勝を祈る、
524
後奈良
天文二一年七月一三日
1552
荻原豊前、佐久郡松原社に神馬銭を渡す、
525
後奈良
天文二一年
1552
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、播磨慈済庵住持竜岫雲甫、の請に応じて、その師宗亀古泉、の道号の頌並に竜岫の道号及びその頌を作る、また竜岫の徒宗仲以孫の請に応じて、之に道号を与へ、その頌を作る、
526
後奈良
天文二一年
1552
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、有玄以三、の請に応じて、之に道号を与へ、その頌を作る、
528
後奈良
天文二一年
1552
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、播磨光明寺住持善策亀渓、の請に応じて、之に道号を与へ、その頌を作る、
529
後奈良
天文二一年八月一一日
1552
武田晴信、大日方讃岐入道に、安曇郡青具等の地を宛行ふ、
530
後奈良
天文二一年八月一二日
1552
武田晴信、安曇郡小岩岳城を攻めて、之を破る、尋で、筑摩郡深志城に兵を班す、
531
後奈良
天文二一年八月二七日
1552
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、播磨盛厳寺より同国三枝寺に寄寓せる相国寺玉竜庵塔主永杲東明、を訪ひ、詩を応酬す、
535
後奈良
天文二一年
1552
諏訪社下社、同社明年常楽会臨時頭役を、佐久郡田口郷地頭に充つ、
537
後奈良
天文二一年
1552
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、播磨雲興寺住持集倫等叔、及びその徒集令善仲、の請に応じて、各に道号を与へ、その頌を作る、
538
後奈良
天文二一年九月五日
1552
武田晴信、諏訪郡慈雲寺住持玄長天桂、をして、同寺領を安堵せしむ、
540
後奈良
天文二一年九月二八日
1552
武田晴信の臣長坂虎房、諏訪頼重の月忌料として諏訪郡来迎寺に、寺領を寄進す、
540
後奈良
天文二一年一〇月六日
1552
武田晴信、某をして、甲府より諏訪への道路橋梁を攻修せしむ、
541
後奈良
天文二一年一一月六日
1552
伊那郡知久頼康、同郡阿嶋安養寺の堂舎を造立す、
542
後奈良
天文二一年一一月二四日
1552
是より先、相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、播磨盛厳寺住持真香梅心、に勧めて、同国君峰山中に郡民の死者を葬らんがために廟を造らしむ、是日、その廟を開かる、集尭、その慶賛の頌を作る、
543
後奈良
天文二一年
1552
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、播磨植田光範善祝、の請に応じて、之に道号を与へ、その頌を作る、
544
後奈良
天文二一年一二月二日
1552
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
544
後奈良
天文二一年一二月六日
1552
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、播磨徳岩寺住持宗永貞嶽、の請に応じて、之に道号を与へ、その銘を作る、
546
後奈良
天文二一年一二月一九日
1552
某、高井郡下木嶋郷等の、夫役を注す、
548
後奈良
天文二一年
1552
周防法泉寺住持宗栄、春芳、上洛す、尋で、宗栄帰郷せんとす、京都諸五山の尊宿、餞偈を賦して之に贈る、相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、その員に備はる、
549
後奈良
天文二二年正月一日
1553
諏訪社上社、神使御頭を定む、
550
後奈良
天文二二年正月八日
1553
伊那郡文永寺宗然・同厳詢、禁中太元護摩に参仕す、
551
後奈良
天文二二年正月二八日
1553
武田晴信・同義信父子、信濃に兵を出さんとし、是日、小山田昌辰に之を告ぐ、
551
後奈良
天文二二年閏正月一八日
1553
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、
552
後奈良
天文二二年閏正月二四日
1553
仁科盛康、武田晴信に出仕す、
552
後奈良
天文二二年二月一三日
1553
武田晴信、依田春賢をして、小県郡中丸子等の地を安堵せしむ、
552
後奈良
天文二二年二月二〇日
1553
武田晴信、筑摩郡法善寺に制札を掲ぐ、
553
後奈良
天文二二年二月二〇日
1553
武田晴信、飯嶋与兵衛に所領を宛行ふ、
554
後奈良
天文二二年二月二三日
1553
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、播磨比延貞房善保、に安名し、またその請に応じて之に道号を与へ、その頌を作る、
554
後奈良
天文二二年四月二日
1553
武田晴信、筑摩郡苅屋原城を陥れ、城主太田長門守を生捕る、同郡塔原城も陥る、
555
後奈良
天文二二年四月九日
1553
是より先、武田晴信、諸将をして、埴科郡葛尾城に、村上義清を攻めしむ、是日、同城陥り、義清、越後長尾景虎の許に奔る、
556
後奈良
天文二二年四月一三日
1553
山城醍醐寺俊聡、伊那郡文永寺宗然に伝法許可の印信を授く、
558
後奈良
天文二二年四月一五日
1553
小県郡慈済寺、涅槃画像の箱を調製す、
559
後奈良
天文二二年四月二二日
1553
武田晴信の兵、越後長尾景虎の兵と、更級郡八幡に戦ふ、尋で、晴信、筑摩郡深志に兵を班す、
559
後奈良
天文二二年四月二九日
1553
佐久郡正安寺住持英文、月舟、寂す、
560
後奈良
天文二二年五月八日
1553
是より先、武田晴信、筑摩郡海野下野守に、同郡苅屋原の地を宛行はんとす、苅屋原城将今福石見守、之を肯ぜず、仍つて是日、晴信、之を裁し、下野守に同郡新村の地を替地として宛行ふ、 小県郡浦野信政、高野山蓮華定院に音信を通ず、
562
後奈良
天文二二年
1553
埴科郡屋代政国、紀伊高野山蓮華定院を、その領民の宿坊と定む、
562
後奈良
天文二二年六月一六日
1553
武田晴信、大須賀久兵衛尉に、所領を宛行ふ、
564
後奈良
天文二二年六月一七日
1553
播磨赤松晴政、亡父義村の三十三年忌仏事を同国安養寺に修し、相国寺住持集尭仁如、をして、陞座説法せしむ、
565
後奈良
天文二二年
1553
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、餞偈を賦して、その侍者宗詔文鳳、の受業寺播磨景雲寺に帰るを送る、
574
後奈良
天文二二年
1553
僧宗察、知庵、佐久郡正安寺住持となる、
575
後奈良
天文二二年七月二五日
1553
武田晴信、村山義清を小県郡塩田城に攻めんとし、是日、甲府を発して、甲斐若神子に到る、尋で、同郡内山城に入る、
576
後奈良
天文二二年八月一日
1553
武田晴信、小県郡和田城を陥る、
577
後奈良
天文二二年八月五日
1553
武田晴信、小県郡塩田城を陥る、尋で、飯富虎昌をして、同城を守らしむ、
577
後奈良
天文二二年八月九日
1553
武田晴信、大日方美作入道等に条目を送り、村上義清の軍に備へしむ、
578
後奈良
天文二二年八月一〇日
1553
武田晴信、真田幸隆に、小県郡秋和の地を宛行ふ、尋で、小県郡の諸士に所領を宛行ふ、
580
後奈良
天文二二年八月一四日
1553
武田晴信、小県郡下之郷上下社をして、社領等を安堵せしむ、
580
後奈良
天文二二年八月一六日
1553
武田晴信、更級郡村上庄内の地等を祢津某等に、宛行ふ、
581
後奈良
天文二二年八月二〇日
1553
後奈良天皇、宸筆般若心経を諏訪社上社に奉納して、天下泰平を祈らる、是日、神長守矢頼真、之を神前に奉納す、
582
後奈良
天文二二年九月一日
1553
是より先、越後長尾景虎の軍、村上義清を援けんがため信濃に攻入り、武田晴信の軍と更級郡布施郷に戦ひ、是日、また、晴信の軍を更級郡八幡等を攻めて之を破る、尋で、筑摩郡青柳城等の諸城を攻む、
586
後奈良
天文二二年九月八日
1553
武田晴信、曲尾越前守に小県郡松本郷の地を宛行ふ、
588
後奈良
天文二二年九月一三日
1553
武田晴信の兵、筑摩郡麻績・更級郡荒砥両城に放火す、
588
後奈良
天文二二年九月一七日
1553
長尾景虎の兵、埴科郡坂城南条に放火するにより、武田晴信、兵を出す、尋で、景虎、兵を班す、
588
後奈良
天文二二年九月二〇日
1553
武田晴信、飯嶋源助に、伊那郡市田郷内の地を宛行ふ、尋で、之を安堵せしむ、
589
後奈良
天文二二年一〇月七日
1553
武田晴信、小県郡塩田より、筑摩郡深志城に入る、尋で、甲府へ帰陣す、
590
後奈良
天文二二年一〇月一七日
1553
僧宗長、年室、小県郡定津院舜栄王室、の法を嗣ぐ、
591
後奈良
天文二二年一一月二〇日
1553
是より先、諏訪社上社神長守矢頼真、山城般舟院三昧院友空を介して、正二位に叙せられんことを請ふて、成らず、是日、頼真、正三位に叙せらる、
591