長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻十一 (100頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後奈良天文五年1536前東福寺住持善叢、茂彦、木曽義元の画像に賛す、106
後奈良天文五年三月二日1536山城醍醐寺理性院厳助、文永寺結縁潅頂雑記を書写す、108
後奈良天文五年1536木曽二子荷百姓等、定勝寺より年貢を減ぜられ、以後懈怠なく納むべきことを約す、109
後奈良天文五年1536後奈良天皇、禅愉亀年、を山城妙心寺住持となす、信濃の僧相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、同門疏を作りて之を賀す、111
後奈良天文五年四月三日1536了尊、亡父清林の十七年忌の為めに、経巻を埋納す、113
後奈良天文五年四月一一日1536諏訪社上社御柱引、113
後奈良天文五年1536諏訪社上社前宮造宮あり、水内郡北高田郷等、同社四之御柱造宮料を課せらる、113
後奈良天文五年六月一四日1536仁科盛能、安曇郡仁科神明の式年造営を行ひ、是日、遷宮を行ふ、114
後奈良天文五年八月一六日1536某、阿祢陀如来画像に裏書を書し、之を水内郡の僧明円に授く、116
後奈良天文五年1536是より先、三河全久院住持舜玉、光国、伊那郡瑞光院を開創す、是月、舜玉、同院を退院す、116
後奈良天文五年閏一〇月六日1536本願寺光教、証如、康楽寺僧某に托し、水内郡長沼浄興寺了恵に書を遣り、合力のことを謝す、118
後奈良天文五年一二月一八日1536諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、119
後奈良天文六年正月一日1537諏訪社上社、神使御頭を定む、121
後奈良天文六年二月二日1537諏訪頼重、小笠原長棟の兵を筑摩郡塩尻城に攻め、同郡赤木・吉田に放火す、121
後奈良天文六年五月六日1537近江円満院門跡、山城聖護院門跡道増来秋の入峯につき、佐久郡大井法華堂源憬の参洛を促す、122
後奈良天文六年七月二日1537伊那郡文永寺住持仙耀、竹恩院、寂す、123
後奈良天文六年一〇月一三日1537諏訪頼重、再び筑摩郡塩尻城を攻め、是日、之を陥る、124
後奈良天文六年一一月一八日1537是より先、諏訪社上社神長守矢頼真、三条西公条に経書写を送り、実隆の死を弔す、是日、公条、頼真の懇志を謝し、且つ諏訪郡兵乱につき慰問す、125
後奈良天文六年1537某、井口新四郎をして、給分・問屋役等を安堵せしむ、尋で、また、安堵せしむ、126
後奈良天文六年一二月六日1537諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、尋で、重ねての御渡なきを注進す、127
後奈良天文六年一二月一五日1537埴科郡満照寺開山総田、夫山、前竜興寺住持英鑑機曇、に嗣法す、128
後奈良天文七年正月一日1538諏訪社上社、神使御頭を定む、129
後奈良天文七年二月三日1538諏訪豊増丸、頼実、諏訪社上社大祝の位に即く、神長守矢頼真指合に依り子信実をして、即位の儀を行はしむ、130
後奈良天文七年二月二九日1538信濃の僧宥清、頼善房、性霊集を書写す、133
後奈良天文七年六月二〇日1538伊那郡文永寺堅純、山城醍醐寺理性院厳助に謝礼のため上洛す、134
後奈良天文七年六月二十三日1538本願寺光教、証如、阿祢陀如来画像に裏書を書し、之を水内郡静間の僧某に授く、134
後奈良天文七年1538諏訪社下社、法楽能を行ふ、134
後奈良天文七年八月一五日1538大井源昌、佐久郡青沼八幡宮に、鰐口を寄進す、 下伊那郡天竜村見遠切開若宮社及び同郡下条村吉岡観音堂所蔵の鰐口銘、135
後奈良天文七年九月一三日1538諏訪社上社神長守矢頼真、同社弥宜矢嶋満清と和す、136
後奈良天文七年一〇月一三日1538小笠原長棟、諏訪社上社に神鷹を奉納す、136
後奈良天文七年一一月一九日1538諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、137
後奈良天文七年一一月二五日1538信濃の人浄久、卒す、138
後奈良天文七年一一月二五日1538諏訪社上社神長守矢頼真、同社に天下泰平を祈る、139
後奈良天文七年一二月二四日1538本願寺光教、証如、阿弥陀如来画像に裏書を書し、之を富倉村僧道尊に授く、141
後奈良天文八年正月一日1539諏訪社上社、神使御頭を定む、141
後奈良天文八年四月六日1539是より先、諏訪社上社神長守矢頼真、古河公方足利晴氏に守符・剣を贈る、是日、晴氏、之に答謝し、併せて剣を贈る、 頼真、簗田高助の請に依り、玉会・守符等を贈る、142
後奈良天文八年五月一二日1539是より先、諏訪頼重、病む、是日、守矢頼真、その平癒を諏訪社上社に祈る、144
後奈良天文八年六月七日1539諏訪頼重、古田山の巣鷹を下し、諏訪社上社に献ず、144
後奈良天文八年六月二六日1539諏訪頼重、小笠原長棟と和す、144
後奈良天文八年1539諏訪社下社、法楽能を行ふ、145
後奈良天文八年一〇月一三日1539佐久郡の人隠岐虎清、卒す、145
後奈良天文八年一二月九日1539諏訪頼満、卒す、146
後奈良天文八年一二月二八日1539諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、148
後奈良天文九年正月一日1540諏訪社上社、神使御頭を定む、149
後奈良天文九年三月一四日1540諏訪頼重、再び病む、尋で、守矢頼真、その平癒を諏訪社上社に祈る、150
後奈良天文九年四月一五日1540前建仁寺住持山城妙光寺歳寒庵塔主宗璨、希三、同寺開山覚心無本、心地房、の法語を書写す、150
後奈良天文九年1540武田信虎、佐久郡に攻入り、諸城を陥る、151
後奈良天文九年六月一八日1540是より先、板屋藤九郎、信濃の市河氏を越後松山城等に攻めて、之を陥る、是日、景重、姓闕く、藤九郎の戦功を褒す、152
後奈良天文九年1540諏訪頼重、小県郡長窪城を領す、152
後奈良天文九年八月二日1540武田信虎、佐久郡海之口に令して、朱印状を帯せざる者に夫伝馬を出すを禁ず、153
後奈良天文九年八月一一日1540大風雨により、諏訪社上社の鉄塔・社木、破損す、153
後奈良天文九年九月一日1540諏訪社上社、法楽能を行ふ、154
後奈良天文九年一一月二日1540妙安、惟高、相国寺住持となり入院す、信濃の僧同寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、山門の疏を作りて、之を迎請す、154
後奈良天文九年一一月八日1540諏訪社上社々殿、鳴動す、156
後奈良天文九年一一月一八日1540諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、156
後奈良天文九年一一月二九日1540甲斐武田信虎の息女祢々、諏訪頼重に嫁し、是日、諏訪に入る、158
後奈良天文一〇年正月一日1541諏訪社上社、神使御頭を定む、160
後奈良天文一〇年正月一日1541諏訪社上社 蛙狩、160
後奈良天文一〇年1541諏訪社上社上坊の立石、鳴動す、161
後奈良天文一〇年五月六日1541水内郡長沼浄興寺了恵、寂す、161
後奈良天文一〇年五月一四日1541武田信虎、諏訪頼重・村上義清を誘ひ、海野棟綱を小県郡海野平に攻めて、之を破る、棟綱等、上野に逃れ、祢津元直・矢沢綱頼等降る、161
後奈良天文一〇年六月一四日1541是より先、武田信虎、佐久郡竜雲寺祖昌徳翁、に、音信を通ず、是日、信虎、子晴信に逐はれ、駿河に走る、163
後奈良天文一〇年七月四日1541是より先、関東管領上杉憲政、海野棟綱の請に依り、小県郡に村上義清を攻めんとす、是日、諏訪頼重、義清に応じて小県郡長窪へ出陣す、尋で、頼重、武田晴信の義清を援けざるに依り、憲政と和し、陣を班す、 佐久郡津金寺雄海、高野山蓮華定院に音信を通じ、近況を報ず、165
後奈良天文一〇年一〇月一四日1541佐久郡志賀の笠原新三郎、雲興寺を創建し、徳忠節香、を請じて開山となす、是日、徳忠入院す、168
後奈良天文一〇年一二月九日1541諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、169
後奈良天文一一年正月一日1542諏訪社上社、神使御頭を定む、171
後奈良天文一一年正月二一日1542本願寺光教、証如、阿弥陀如来画像に裏書を書し、之を真宗寺祐顕に授く、171
後奈良天文一一年四月四日1542諏訪頼重の嫡子虎王、生まる、172
後奈良天文一一年四月一〇日1542諏訪社上社御柱引、172
後奈良天文一一年六月一一日1542諏訪社上社遷宮、諏訪頼重の子虎王、初めて同社に参詣す、173
後奈良天文一一年七月二日1542武田晴信、高遠の諏訪頼継と共に、諏訪頼重を諏訪郡上原城に攻めて之を破り、同郡桑原城に奔らしむ、173
後奈良天文一一年七月五日1542是より先、武田晴信、諏訪頼重を桑原城に攻めて之を降す、是日、晴信、頼重を甲斐に幽す、尋で、晴信、頼重を自刃せしむ、175
後奈良天文一一年1542佐久郡雲興寺住持徳忠、節香、埴科郡禅透院を開く、182
後奈良天文一一年1542武田晴信、諏訪社上社に、灯明田並に社僧領を寄進す、183
後奈良天文一一年1542武田晴信、古田七郎をして、諏訪郡金子・栗沢の地を安堵せしむ、184
後奈良天文一一年九月一〇日1542高遠の諏訪頼継、同頼重の遺領を領す、185
後奈良天文一一年九月二四日1542武田晴信、諏訪頼継を討たんとし、諏訪社上社に戦勝を祈る、185
後奈良天文一一年九月二五日1542武田晴信、諏訪頼重の遺子虎王を擁して、諏訪頼継・矢嶋満清等を諏訪郡安国寺前宮川に攻めて、之を破る、187
後奈良天文一一年九月二六日1542武田晴信の将高白斎、伊那郡高遠に入り、藤沢に放火し、藤沢頼親を降す、尋で、また、板垣信方、上伊那に攻入る、190
後奈良天文一一年一〇月七日1542諏訪社上社神長守矢頼真、同社祢宜職を兼ぬ、191
後奈良天文一一年一〇月七日1542武田晴信、諏訪社上社神長守矢頼真に所役を免ず、192
後奈良天文一一年一二月一日1542板垣信方、諏訪郡尾口郷をして千野靭負尉に、年貢を進済せしむ、192
後奈良天文一一年一二月二日1542諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、193
後奈良天文一一年一二月一五日1542祢津元直の女、甲斐武田氏に嫁す、195
後奈良天文一一年1542泉六郎次郎、元服し、高梨政頼より政親の名を授けらる、195
後奈良天文一一年1542諏訪社下社御造宮あり、高井郡木嶋上下郷等、同社秋宮四之御柱の造宮を勤む、195
後奈良天文一二年正月一日1543諏訪社上社、神使御頭を定む、197
後奈良天文一二年正月八日1543伊那郡文永寺宗然、禁中太元護摩に参仕す、198
後奈良天文一二年三月一八日1543相国寺鹿苑院塔主法霖、梅叔、同寺雲頂院雲沢軒主集尭仁如、に、賢諄大痴、の東福寺住持として同寺に入院するに際し、江湖疏を作らんことを請ふ、198
後奈良天文一二年1543板垣信方、佐久郡北沢の地を、井出縫殿尉に宛行ふ、199