長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十七 (500頁~)
1頁~
100頁~
200頁~
300頁~
400頁~
500頁~
600頁~
「信濃史料」巻別収録年代に戻る
・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇
年月日
西暦
記事
頁
明正
寛永一六年一〇月二五日
1639
松平忠利、忠節、小県郡金井村の本年免相を定む、
504
明正
寛永一六年一〇月二八日
1639
幕府、徒目付を木曽路等に遣はし、盗賊を捜捕せしむ、
504
明正
寛永一六年
1639
松平忠憲、憲良、佐久郡平原村等領内諸村の本年免相を定む、
505
明正
寛永一六年
1639
小県郡長窪新町の石帳、成る、
510
明正
寛永一六年一一月四日
1639
佐久郡下桜井村の安四郎、同村の六左衛門に売渡せる田地を買戻す、
514
明正
寛永一六年一一月四日
1639
奈良新七郎、伊那郡虎岩村より、鳥黐を請取る、
516
明正
寛永一六年一一月一一日
1639
幕府代官近山安俊等、高井郡西条新田村等に、本年年貢を割付く、
517
明正
寛永一六年一一月一一日
1639
真田信之の家臣矢島庄右衛門等、是日より、年貢納払金を請取る、
521
明正
寛永一六年一一月一五日
1639
幕府代官岡上景親、佐久郡北相木村等に、本年年貢を割付く、
522
明正
寛永一六年一一月一五日
1639
堀田正盛、安曇郡金熊村の長左衛門に、鉄砲の所持を許す、 堀田正盛より安曇郡舟場村の孫次右衛門等に出せる無役判札写、並びに同郡八坂村に出せる殺生鑑札写
526
明正
寛永一六年一一月一六日
1639
是より先、山村良豊・千村重長、幕府の木曽道中の盗賊捜捕を令するを、木曽知行人等に通達す、是日、知行人等、請書を良豊・重長に進む、
532
明正
寛永一六年一一月一六日
1639
幕府代官天羽景慶の手代坂原武兵衛、是日より高井郡押切村の本年年貢払方請取を記す、
533
明正
寛永一六年閏一一月五日
1639
是より先、佐久郡新海三社祠官某等、同社山宮内匠の神領を専断するを、幕府寺社奉行に訴ふ、是日、寺社奉行、内匠の出頭を命ず、尋いで、内匠、陳状を差出す、
536
明正
寛永一六年閏一一月五日
1639
堀田正盛、安曇郡大野田村等に、本年年貢を割付く、
540
明正
寛永一六年閏一一月六日
1639
堀田正盛、徳川家光より大鷹を賜はり、武蔵川越近辺の鷹場に遊ぶ、
541
明正
寛永一六年閏一一月一七日
1639
幕府代官岡上景親の手代市川五兵衛、佐久郡上海瀬村の新海与右衛門より、本年六尺給銭を請取る、 高木太兵衛等、佐久郡原村より、六尺給米代を請取る、
541
明正
寛永一六年閏一一月二一日
1639
松平万助、忠倶、高井郡犬飼村等領内諸村の本年免相を定む、
542
明正
寛永一六年閏一一月二二日
1639
埴科郡明徳寺住持本誉、天峰、大廓に付法す、
546
明正
寛永一六年閏月一一日
1639
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
548
明正
寛永一六年
1639
伊那郡仲仙寺の梵鍾、成る、
548
明正
寛永一六年一二月二日
1639
幕府代官設楽能業の手代保坂七兵衛等、佐久郡原村の前年分年貢を皆済せるを証す、尋いで、同郡本新町村の前年分年貢を皆済せるを証す、
550
明正
寛永一六年一二月三日
1639
神道管領長上吉田兼英、佐久郡野沢村十二明神・若宮八幡社の祠官堀米秀次に、風折烏帽子・狩衣の着用を允可す、
551
明正
寛永一六年一二月五日
1639
幕府代官岡上景親の手代市川五兵衛、佐久郡上海瀬村の新海与右衛門より、本年山年貢・鉄砲役銭を請取る、尋いで、本年年貢を請取る、
552
明正
寛永一六年一二月六日
1639
山村良豊、堀田正盛の家臣植松庄左衛門等に、籾子の売渡を請ふ、
553
明正
寛永一六年一二月八日
1639
佐久郡下海瀬村土屋与左衛門、寛永十三年改めの同郡幕府領諸村の村高寄及び年貢高を記す、
553
明正
寛永一六年一二月一〇日
1639
山城本願寺光円、良如、高井郡円光寺明春所蔵の三朝高僧画像に裏書を加ふ、 円光寺所蔵の上宮太子画像の裏書
557
明正
寛永一六年一二月一三日
1639
真田信之、河原八十郎に知行を給す、
558
明正
寛永一六年一二月一九日
1639
庄右衛門、伊那郡の長左衛門より、銀子を借用す、 長左衛門宛の書状
558
明正
寛永一六年一二月二〇日
1639
安曇郡堀田正盛領上一本木村、是日より、年貢払目録を書上ぐ、
560
明正
寛永一六年一二月二三日
1639
堀田正盛、安曇郡金熊村庄屋北沢孫左衛門の同郡相川開田の功を賞し、扶持を給す、
563
明正
寛永一六年一二月二四日
1639
伊那郡幕府代官市岡忠次、同郡に卒す、
563
明正
寛永一六年一二月二五日
1639
江戸城西丸の石垣改築の工、竣る、徳川家光、普請助役松平忠憲憲良、等諸大名の功を犒ふ、
566
明正
寛永一六年一二月二六日
1639
木曽福島宿、火く、尋いで、徳川義直、山村良豊に金子を貸与し、その復興を図らしむ、
566
明正
寛永一六年一二月二七日
1639
佐久郡大日向村の五郎兵衛、同郡井出次久より、金子を借用す、 半三郎等、井出次久に、質物として籾子を預く、
568
明正
寛永一六年一二月二八日
1639
真田信政、同信重等、参覲す、
569
明正
寛永一六年一二月三〇日
1639
鳥居忠春、従五位下に叙せられ、主膳正に任ぜらる、
570
明正
寛永一六年
1639
堀田正盛の家臣土屋光忠等、安曇郡堀之内村等の前年分年貢納払を皆済せるを証す、
573
明正
寛永一六年
1639
佐久郡幕府領高野町村下組の年貢名寄帳、成る、
574
明正
寛永一七年正月一日
1640
林道春、羅山、脇坂安元の新年試筆の和歌の脚韻を和して、詩を製し、之を安元に贈る、
577
明正
寛永一七年正月一三日
1640
徳川家光、堀田正盛の江戸下屋敷に臨む、尋いで、また屢臨む、
577
明正
寛永一七年正月二八日
1640
山城本願寺光円、良如、水内郡宗恵所蔵の木造阿弥陀如来像に銘を加ふ、
580
明正
寛永一七年二月一日
1640
水内郡戸隠山別当宝蔵院・更級郡八幡社神宮寺別当等、徳川家光に目見えす、
581
明正
寛永一七年二月二日
1640
伊那郡虎岩村平沢勘右衛門、同村内に前年布達の法度に背き他所へ奉公等に出づるものなきを誓ふ、
581
明正
寛永一七年二月五日
1640
山城本願寺光円、良如、水内郡柏原村妙泉寺浄信所蔵の親鸞画像に裏書を加ふ、
582
明正
寛永一七年二月六日
1640
神道管領長上吉田兼英、佐久郡松原大明神祠官畠山秀久に、風折烏帽子・狩衣の着用を允可す、
582
明正
寛永一七年二月一〇日
1640
伊那郡邑主井上庸名の子同庸尾、頼母、徳川家光に初めて目見えす、
583
明正
寛永一七年二月一二日
1640
是より先、大坂陣落人堀田興重の子源内、乳母に育てられ、長じて小県郡長窪宿石合道定を頼り、同宿に住す、是日、乳母、大坂落人詮索の議あるにより、源内の身上につき上申す、尋いで、道定、源内等村内の身元不審の者の身上につき上申す、
584
明正
寛永一七年二月一五日
1640
松平万助忠倶、の江戸屋敷、類火す、
586
明正
寛永一七年二月一八日
1640
山村良豊、女四人を木曽福島より江戸へ遣はさんとし、上野横川関小野七郎左衛門等に、同所通過を依頼す、
586
明正
寛永一七年二月二六日
1640
真田信之、小日向四郎兵衛に知行を加給す、
587
明正
寛永一七年二月二七日
1640
幕府、下野日光祭礼に赴かんとする公家衆・門跡衆の、木曽路を下向するにより、道中の道・橋以下の整備を、道筋の給人・代官に命ず、
588
明正
寛永一七年
1640
松平忠憲、憲良、佐久郡矢島村の茂右衛門をして、同郡片倉の内岩下村の荒地を開かしむ、
588
明正
寛永一七年
1640
筑摩郡小野社神主某、その社人の操人形巡業を許されんことを、村々神主衆に請ふ、
589
明正
寛永一七年三月二日
1640
堀田正盛の江戸下屋敷、類火す、
589
明正
寛永一七年三月三日
1640
山村良豊、下野日光祭礼に下向せんとする公家衆の木曽路通行にあたり、徳川義直の老臣等に助馬の許可を請ふ、また良豊・千村重長、美濃幕府代官岡田義政にも依頼す、
590
明正
寛永一七年三月一四日
1640
幕府、井上庸名等に、下野日光祭礼の被物役を命ず、
591
明正
寛永一七年三月一六日
1640
佐久郡高野町村、幕府代官設楽能業に、五人組帳を指出す、尋いで、同郡下桜井村も指出す、
591