長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十七 (1頁~)
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明正
寛永一四年正月一日
1637
林道春、羅山、飯田城主脇坂安元の新年試筆の和歌の脚韻を和して、詩を製し、之を安元に贈る、
1
明正
寛永一四年正月一一日
1637
木曽山村良豊、下女を木曽福島より江戸屋敷へ遣はさんとし、上野横川関松下源左衛門等に、同所通過を依頼す、尋いで、また依頼す、
2
明正
寛永一四年正月一一日
1637
幕府代官天羽景慶の手代坂原兵左衛門、高井郡押切村に寛永十一年分年貢払方請取状を渡す、
3
明正
寛永一四年正月一一日
1637
幕府代官青木俊定の手代曽我左五右衛門、高井郡箕作村に寛永十一年分年貢請取状を渡す、
4
明正
寛永一四年二月二日
1637
幕府、佐久郡芦田宿等中山道諸宿に、宿場定書を下す、
5
明正
寛永一四年二月二日
1637
脇坂安元の家臣国木田清大夫、伊那郡虎岩村平沢新十郎に、竹につき指図す、 国木田清大夫、虎岩村平沢勘右衛門より、つかみ竹を請取る、
9
明正
寛永一四年二月八日
1637
小諸城主松平忠憲憲良、の家臣渡辺時、小県郡長窪村の勘右衛門をして、同郡長安寺に地を進めしむ、
10
明正
寛永一四年二月一三日
1637
松城城主真田信之の家臣高橋八兵衛、更級郡中牧村の勘兵衛に、同村滝沢山を安堵し、諸役を免ず
11
明正
寛永一四年二月一四日
1637
真田信之、片岡左衛門に知行を加給す、
11
明正
寛永一四年二月一七日
1637
伊那郡の太郎衛等、三五郎に田地・被官を売渡す、
12
明正
寛永一四年三月二日
1637
是より先、安曇郡青具村の宮左衛門等、同村の弥三郎等と田地のことにつき争論す、是日、両者、和解す、
13
明正
寛永一四年三月七日
1637
大谷本願寺宣如、光従、高井郡宝広寺住持善説所蔵の親鸞画像に裏書を加ふ、
14
明正
寛永一四年三月一〇日
1637
松本城主松平直政、安曇郡仁科神明社領の内、去年検地の際の打出し高を社領となすべきを、同社検校等に約す、
14
明正
寛永一四年三月一〇日
1637
佐久郡入沢村百姓、同郡余地村百姓と薪木山入会につき約定す、
15
明正
寛永一四年三月一五日
1637
伊那郡浪合村惣百姓、原杢左衛門尉より、拘田を借り請け、之を本役人屋敷とす、
15
明正
寛永一四年三月一七日
1637
高井郡須坂邑主堀直升、卒す、
16
明正
寛永一四年三月一九日
1637
伊那郡虎岩村の百姓等、前年江戸に赴きし使者の入費等を配分す、
21
明正
寛永一四年
1637
佐久郡駒形大明神社殿、成る、
23
明正
寛永一四年閏三月二日
1637
佐久郡井出次久等、同郡の茂兵衛より、同郡八那池村の前年分納籾・雑穀の代金を請取る、尋いで、前年分年貢の代金を請取る、
25
明正
寛永一四年閏三月七日
1637
幕府、出羽米沢城主上杉定勝に命じ、江戸城外郭普請助役相組松平忠憲憲良、上田城主仙石政俊等と共に、外郭堤上に松・杉の苗を植ヱしむ、
26
明正
寛永一四年閏三月七日
1637
伊那郡安養寺の徒尭辰、円俊房、悉曇十八章私見聞を、大和郡山円融寺に書写す、
29
明正
寛永一四年閏三月八日
1637
高島城主諏訪頼水、井手宗順に書を送り、諏訪郡頼岳寺の後主の斡旋を依頼す、
29
明正
寛永一四年閏三月一〇日
1637
肥後熊本城主細川忠利、真田信之に音信を送る、
32
明正
寛永一四年
1637
土佐高知城主山内忠義、江戸に赴かんとし、東海道の混雑するに依り、木曽路を通る、
32
明正
寛永一四年
1637
林道春、羅山、脇坂安元の春雪の和歌の脚韻を和して、詩を製し、之を安元に贈る、
33
明正
寛永一四年四月二三日
1637
名古屋城主徳川義直の室、高原院、江戸に於いて卒す、尋いで、遺体を木曽路を経て名古屋に送る、
33
明正
寛永一四年四月二三日
1637
脇坂安元、帰国の暇を賜はる、
34
明正
寛永一四年
1637
佐久郡竜雲寺住持大竜、蟠谷、虎谷、同寺の梵鐘を造る、
35
明正
寛永一四年五月二九日
1637
脇坂安元の家臣脇坂内膳、伊那郡虎岩村平沢新十郎より、年貢米等を請取る、尋いで、また請取る、 某六左衛門、伊那郡虎岩村平沢新十郎より、米を請取る、
36
明正
寛永一四年五月二九日
1637
脇坂安元の家臣脇坂内膳、伊那郡虎岩村平沢新十郎より、上げ綿を請取る、尋いで、また請取る、
48
明正
寛永一四年六月一日
1637
脇坂安元の家臣藤村七左衛門、伊那郡虎岩村平沢新十郎より、同村の前年分種米を請取る、尋いで、また請取る、
49
明正
寛永一四年六月三日
1637
伊那郡の幕府代官宮崎景次、卒す、
51
明正
寛永一四年六月一三日
1637
松平直政、筑摩郡薄宮に祭料を寄進す、
52
明正
寛永一四年六月二三日
1637
更級郡中牧村の勘兵衛、某と同村滝沢山につき争論す、是日、真木五右衛門の仲裁により、落着す、
52
明正
寛永一四年六月二七日
1637
伊那郡虎岩村、前年分の年貢払方勘定を記す、
53
明正
寛永一四年六月二八日
1637
諏訪頼水、幕府奉行所に、江戸城造営用材の注文を進む、
55
明正
寛永一四年七月九日
1637
真田信之、安中作左衛門に、上野沼田領分支配のことにつき条目を下す、 安中作左衛門、上野沼田の奉行に任ぜらる、
56
明正
寛永一四年七月一一日
1637
松平直政の家臣日野武定、安曇郡堀之内村の庄八に、同村の前年分年貢納払目録を渡す、
58
明正
寛永一四年七月一八日
1637
幕府、仙石政俊等に大坂加番を命ず、
59
明正
寛永一四年七月二五日
1637
松平直政、安曇郡穂高大明神に祭料を寄進す、
63
明正
寛永一四年八月四日
1637
幕府代官岡上景親、佐久郡新海三社神宮寺・山宮社人衆の高役を免じ、また同社に禁制を掲ぐ、
64
明正
寛永一四年八月一〇日
1637
島介左衛門、伊那郡上穂村の前年分年貢を皆済せるを証す、
65
明正
寛永一四年八月一〇日
1637
幕府代官天羽景慶、高井郡桜沢村等の新田を検地す、 天羽景慶による同年月の高井郡亀倉村の新田検地帳
65
明正
寛永一四年八月一四日
1637
真田信之、坂巻与兵衛等をして、更級郡二柳村等十箇村の新田・隠田を改めしむ、
71
明正
寛永一四年八月一五日
1637
山城聖護院門主道晃、佐久郡法華堂堅栄を同郡年行事職及び檀那職となす、
72
明正
寛永一四年八月二七日
1637
諏訪頼水の家臣三輪知友、筑摩郡和泉村の惣兵衛に、前年分年貢の納払皆済目録を渡す、
73
明正
寛永一四年
1637
山城聖護院門主道晃、筑摩郡密蔵院主某を三僧祇となし、桃地結袈裟の着用を允可す、また道晃、佐久郡泉光坊某を僧都となす、
74
明正
寛永一四年
1637
山村良豊の叔父山村三得、木曽水無社に六歌仙額を奉納す、
75
明正
寛永一四年
1637
伊那郡脇坂安元領柏原村の里分納高帳、成る、
76
明正
寛永一四年九月八日
1637
幕府、堀直輝大学、をして、父同直升の遺領を嗣がしめ、高井郡須坂邑主となす、 堀直輝の真田信之の家臣海野宮内宛の書状
79
明正
寛永一四年九月二五日
1637
小県郡定津院前住持英点、雪堂、寂す、尋いで、佐久郡城光院住持宗雪、嶺室、定津院住持となる、
81
明正
寛永一四年九月二七日
1637
仙石政俊、小県郡手塚村等領内諸村の本年年貢高を定む、尋いで、同郡小牧村等の本年改め分新田の年貢高を定む、 仙石政俊、小県郡下室賀村の新田を検地す、
82
明正
寛永一四年
1637
越後高田城主松平光長、同領内埴科郡中之条村を地詰検地す、
89