長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十七 (400頁~)
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明正
寛永一六年正月三日
1639
真田信之、岩崎勝蔵に知行を加給す、
400
明正
寛永一六年正月二〇日
1639
堀田正盛、安曇郡成就院等領内寺社に、地を寄進す、 正盛の家臣土屋光忠の成就院宛書状
401
明正
寛永一六年正月二一日
1639
堀田正盛、江戸城二の丸に於いて徳川家光に茶を献ず、 本年中、正盛、家光に茶を献ずること
404
明正
寛永一六年二月一日
1639
水内郡戸隠山・更級郡八幡社神宮寺別当等、徳川家光に目見えす、
405
明正
寛永一六年二月二日
1639
山村良豊、徳川義直の家臣取田寄良等より、木曽山材木本切の代金を請取る、
405
明正
寛永一六年二月一〇日
1639
堀田正盛、筑摩郡小野社に、遷宮・御柱祭礼の費用を寄進す、
406
明正
寛永一六年二月一一日
1639
木曽馬篭宿、火く、尋いで、徳川義直、同宿に金子を貸与し、復興を図らしむ、
408
明正
寛永一六年二月一九日
1639
関三刹、曹洞宗信濃僧録埴科郡長国寺をして、同宗条目を同国内の伊那郡竜勝寺以下同宗諸寺に頒布せしむ、 総持寺妙高庵塔主臨渚、竜勝寺江湖会に就いての長国寺の抗弁を斥く、
408
明正
寛永一六年二月二〇日
1639
堀田正盛、安曇郡満願寺をして、観音領の地を安堵せしむ、
413
明正
寛永一六年
1639
山村良豊、幕府の命により、江戸薬園の薬種を、木曽谷中に掘る、
414
明正
寛永一六年三月一日
1639
佐久郡松平忠憲憲良、領片倉村、同村新田打起高を記す、
415
明正
寛永一六年三月一日
1639
木曽泉光院、咒文を記す、
416
明正
寛永一六年三月三日
1639
幕府、遠江掛川城主松平忠重の遺子同万助忠倶、を、故佐久間安次勝長、の旧領水内郡飯山に移す、
416
明正
寛永一六年三月四日
1639
伊那郡松下長蔵、同郡脇坂安元領上飯田村の寛永十四・十五年分知行米を完済す、
420
明正
寛永一六年三月一一日
1639
北原弥兵衛、伊那郡荊口薬師堂を修造す、
420
明正
寛永一六年三月一九日
1639
脇坂安元の家臣国木田清大夫、伊那郡虎岩村平沢新十郎より、竹を請取る、尋いで、また請取る、
421
明正
寛永一六年三月二一日
1639
真田信之の奉行人、更級郡桑原村の八蔵等の罪科を裁す、 信之の奉行人、松城の九左衛門等の印判偽造等を裁す、
422
明正
寛永一六年三月二四日
1639
徳川家光、堀田正盛の疾を訪ふ、
424
明正
寛永一六年三月二七日
1639
筑摩郡小野光政、同家先祖の世代を記す、
424
明正
寛永一六年三月二八日
1639
伊那郡幕府代官支配小川村の百姓、同郡脇坂安元領伊久間村の百姓の板子を盗むこと等を安元に出訴す、
425
明正
寛永一六年
1639
伊勢桑名城主松平定綱、江戸参府のため木曽路を通る、
427
明正
寛永一六年
1639
伊那郡香坂仁兵衛の定納帳、成る、 伊那郡大草村残高書立及び年貢納払覚等
428
明正
寛永一六年四月一日
1639
堀田正盛の家臣土屋光忠、安曇郡飯田村に、年貢麻並びに麻手を割付く、
431
明正
寛永一六年四月三日
1639
真田信政等、参覲す、
433
明正
寛永一六年四月一四日
1639
山村良豊、丹波亀山城主菅沼定芳の許にある山村五郎右衛門の子息を、定芳の子息に奉公せしめんとし、その斡旋を美濃苗木城主遠山秀友に依頼す、
434
明正
寛永一六年四月一五日
1639
堀田正盛の家臣土屋光忠等、安曇郡金熊村庄屋北沢孫左衛門の蝋普請に功あるにより、給米を与ふ、
435
明正
寛永一六年四月一七日
1639
脇坂安元の母、玄昌院、伊那郡飯田に卒す、尋いで、安元、林道春羅山、と哀悼の詩歌を贈答す、 安元及びその母玄昌院、京都西洞院家・清水谷家等と音信す、
435
明正
寛永一六年四月一八日
1639
小県郡長久寺開山俊栄、政算より伝法灌頂を受く、 長久寺の法脈
440
明正
寛永一六年四月二三日
1639
仙石政俊等、帰国の暇を賜はる、
443
明正
寛永一六年四月二八日
1639
飯山城主松平万助、忠倶、水内郡笠倉村に条目を頒つ、
444
明正
寛永一六年四月二八日
1639
真田信之等、帰国の暇を賜はる、
445
明正
寛永一六年四月二八日
1639
伊那郡知久平の四郎兵衛、同郡虎岩村平澤新十郎より、米を請取る、尋いで、また請取る、
445
明正
寛永一六年四月二九日
1639
真田信重参覲す、
446
明正
寛永一六年五月一四日
1639
是より先、安曇郡切窪の惣兵衛等、同所の忠兵衛等と畑の境目につき争論す、是日、茂平次等の仲介により和解す、 安曇郡の小右衛門等、長左衛門と田地を争ひ、同郡本町の甚次等の仲介により和解す、
447
明正
寛永一六年五月二〇日
1639
幕府、和蘭人をして、その進むる所の石火矢を試みしむ、堀田正盛等、之を監視す、
448
明正
寛永一六年五月二〇日
1639
堀田正盛、紺屋頭京紺屋喜三郎等に、松本領内総紺屋役を命ず、
449
明正
寛永一六年六月一日
1639
佐久間勝友の子同勝豊、権之助、徳川家光に初めて目見えす、また伊那郡邑主小笠原長泰等及び信濃代官四人も目見えす、
450
明正
寛永一六年六月一八日
1639
幕府、脇坂安元の江戸下屋敷の内を割き、之を金地院に与ふ、
451
明正
寛永一六年六月二〇日
1639
幕府、真田信之の請を容れ、その孫上野沼田城主同熊之助の遺領の内、二万五千石を次子信政に、五千石を孫信利信澄、に分ち与へて沼田に在城せしめ、信政の旧領埴科郡等一万七千石を三子信重に与ふ、 信之の信重宛書状
451
明正
寛永一六年六月二一日
1639
是より先、三河岡崎城主本多康紀、同領内より筑摩郡松本に到らんとする堀田正盛の家臣柳井八郎兵衛母の木曽福島関通過を、山村良豊に依頼し、良豊、正規の手形ならざるに依り之を留置く、是日、徳川義直の老臣成瀬正虎等、正盛の依頼に依り、良豊をして、同女を勘過せしむ、
455
明正
寛永一六年七月七日
1639
松平万助、忠倶、高井郡小菅村の青苧改を行ふ、 高井郡松平万助忠倶、領平林村の青苧改帳
456
明正
寛永一六年七月九日
1639
松平万助、忠倶、父同忠重の跡式相続謝礼のため、徳川家光に目見えす、
459
明正
寛永一六年七月一一日
1639
是より先、水内郡善光寺領同寺門前下大門町羽田彦右衛門等、同寺大勧進代官円喜等の非違を幕府に訴ふ、是日、幕府、円喜等に江戸出頭を命ず、尋いで、円喜等、陳弁書を幕府に差出す、
459
明正
寛永一六年七月二五日
1639
真田信之、片岡理兵衛に知行を給す、
470
明正
寛永一六年七月二八日
1639
佐久郡宿屋村の喜兵衛、闕落人を隠匿せざる旨を、同郡井出次久に誓ふ、
471
明正
寛永一六年七月二九日
1639
幕府勘定頭曽根吉次等、山村良豊をして、江戸商人五郎右衛門の江戸城納戸方白木の木曽買出を監督せしむ、尋いで、良豊、之に答ふ、
472
明正
寛永一六年八月一日
1639
幕府代官設楽能業の手代保坂七兵衛等、佐久郡本新町村より、寛永十四年分年貢売付金を請取る、尋いで、また請取る、
473
明正
寛永一六年八月二日
1639
幕府、江戸城西丸の石垣を修理せんとし、松平忠憲憲良、等諸大名に手伝を命ず、
474
明正
寛永一六年八月三日
1639
真田信之、成沢勘左衛門より、松城町闕所家屋の売払代金を請取る、
475
明正
寛永一六年八月一一日
1639
江戸城本丸、火く、尋いで、山村良豊、その復旧用材の調達を命ぜらるるも、木曽にては早急に調達ならざる旨を徳川義直の老臣長野政成等に報ず、
476
明正
寛永一六年八月一五日
1639
真田信之、小幡将監に知行を給し、足軽を預く、また前島金三郎に知行を加給す、
477
明正
寛永一六年九月五日
1639
真田信之、紀伊高野山蓮華定院に、旧の如く同院を領民の宿坊たらしむべきを約す、
478
明正
寛永一六年九月九日
1639
諏訪頼水の家臣三輪知友等、筑摩郡和泉村の孫兵衛に同村の前年分年貢納払皆済目録を渡す、
479
明正
寛永一六年九月一八日
1639
鳥居忠春、伊那郡高遠樹林寺に、寺領を寄進す、
480
明正
寛永一六年九月二七日
1639
是より先、平野半之丞、亡父同又左衛門を小県郡霊泉寺に葬り、霊供田を寄進す、是日、霊泉寺住持、永代供養を約す、
481
明正
寛永一六年一〇月一〇日
1639
幕府代官天羽景慶等、高井郡亀倉村等に、本年年貢を割付く、
481
明正
寛永一六年一〇月一二日
1639
脇坂安元等、駿府加番の任を了へ、江戸に帰参す、
486
明正
寛永一六年一〇月一四日
1639
仙石政俊、小県郡下之郷村等の本年年貢高を定む、尋いで、同郡横沢村等領内諸村の本年年貢高を定む、
487
明正
寛永一六年一〇月一五日
1639
諏訪頼水、疾癒ゆるに依り、徳川家光に目見えす、
491
明正
寛永一六年一〇月一六日
1639
幕府代官近山安俊等、水内郡問御所村に、本年年貢を割付く、
492
明正
寛永一六年一〇月一六日
1639
幕府代官設楽能業、高井郡高井村に、本年年貢を割付く、尋いで、佐久郡鎰掛村等に割付く、
493