長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十七 (600頁~)
1頁~
100頁~
200頁~
300頁~
400頁~
500頁~
600頁~
「信濃史料」巻別収録年代に戻る
・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇
年月日
西暦
記事
頁
明正
寛永一七年三月二三日
1640
伊那郡四徳村の善左衛門等、めん百姓になり、庄屋九郎右衛門等にその証判を請ふ、
601
明正
寛永一七年三月二三日
1640
筑摩郡堀田正盛領麻績神明の神主等、同社の社領を従前の如く安堵せられんことを、代官所に訴ふ、
602
明正
寛永一七年
1640
土佐高知城主山内忠義の子同忠豊、江戸参府のため木曽路を通る、
602
明正
寛永一七年
1640
是より先、水内郡善光寺領三ヶ村、同寺大勧進代官円喜の非違を幕府に訴ふ、是日、円喜・大本願代官宗雪、幕府に之を弁ず、
604
明正
寛永一七年
1640
佐久郡海瀬村の権右衛門、持高帳を記す、
607
明正
寛永一七年四月二日
1640
佐久郡平原村の権三郎、庄兵衛より蔵米を請取る、
611
明正
寛永一七年四月三日
1640
仙石政俊、参覲す、
612
明正
寛永一七年四月三日
1640
清水谷実任、女三人を京都より伊那郡飯田の脇坂安元の許に遣はさんとし、京都所司代板倉重宗に通行手形を依頼す、尋いで、重宗、之を発す、
613
明正
寛永一七年四月四日
1640
是より先、徳川義直の家臣小笠原惣左衛門等、木曽福島関女手形のことにつき、山村良豊に訊す、是日、良豊、同関女手形の写を進めて、之に答ふ、
613
明正
寛永一七年四月五日
1640
徳川家光、江戸城本丸に移徙す、尋いで、松平忠憲憲良、等諸大名、之を賀す、 仙石政俊、手水盥を徳川家光に献ず、
614
明正
寛永一七年四月一〇日
1640
諏訪頼水、諏訪郡千野山の草苅場を、同郡中河原村等八箇村の入会となさしむ、
615
明正
寛永一七年四月一八日
1640
徳川家光、同家康の廿五回忌法会を下野日光山東照社に修す、堀田正盛等、之に供奉す、
616
明正
寛永一七年四月一八日
1640
千村重長の手代門野次右衛門、重長支配伊那郡大南山村漆平野山榑木出しの、杣・日用等の扶持米請払目録を書上ぐ、
617
明正
寛永一七年四月二七日
1640
真田信重、師田茂兵衛に知行を給す、
620
明正
寛永一七年
1640
藤沢政家、伊那郡長岡の八幡宮を修造す、
621
明正
寛永一七年五月六日
1640
仙石政俊の子同忠俊、上田城に生る、
621
明正
寛永一七年五月八日
1640
堀田正盛、国替の後、幕府の許可を俟たず関所女手形を発す、是日、山村良豊、その取扱を徳川義直の老臣に問ふ、
622
明正
寛永一七年五月一七日
1640
京都八条殿町宿主作兵衛、組下の女五人の京都より伊那郡に赴かんとするにより、京都所司代板倉重宗にその関所手形を請ふ、尋いで、重宗、之を発す、
622
明正
寛永一七年五月二二日
1640
真田信之、参覲す、また伊那郡邑主知久直政の子同直明、徳川家光に初めて目見えす、
624
明正
寛永一七年五月二六日
1640
是より先、佐久郡明楽院等、同郡大楽院等を京都聖護院に誹謗す、是日、両者、和解し、明楽院等、手形を以つてその事実に非ざることを証す、
624
明正
寛永一七年五月二六日
1640
幕府代官岡上景親の手代市川五兵衛、佐久郡上海瀬村の新海与右衛門等より、前年分の鉄砲役銭を請取る、
627
明正
寛永一七年
1640
幕府、仙石政俊・脇坂安元に、江戸城四谷門の守衛及び江戸中火消役を命ず、
627
明正
寛永一七年六月一日
1640
善光寺大勧進某、徳川家光に目見えす、
628
明正
寛永一七年六月一一日
1640
徳川家光、幕府代官岡上景親・設楽能業等の、下野日光祭礼下向の公家衆の木曽路往還に際し、之を路次に接待せし辛労を犒ふ、
628
明正
寛永一七年六月一三日
1640
伊那郡の小十郎等、同郡の左近等に、同郡郷原寺澤水の使用方を約す、
629
明正
寛永一七年六月一五日
1640
堀田正盛、徳川家光の命により、武蔵仙波東照社の遷宮式に臨む、正盛、同社に石鳥居を献ず、
630
明正
寛永一七年六月二四日
1640
是より先、安曇郡小網村の惣兵衛等、同郡中谷村の茂兵衛等と入会地につき争論す、是日、同郡大町庄屋清兵衛等の仲介により、和解す、
631
明正
寛永一七年七月七日
1640
信濃・美濃の幕府代官等、徳川家光に目見えす、
632
明正
寛永一七年七月九日
1640
脇坂安元の家臣藤村七左衛門、伊那郡下殿岡村の弥九郎より、同村前年分の種子米を請取る、
632
明正
寛永一七年七月二〇日
1640
伊那郡近藤重直領上穂村横厩の庄兵衛、同村羽場の百姓と同郡脇坂安元領赤須郷福岡の百姓善内との、入会草刈地争論の顛末を記す、
632
明正
寛永一七年七月二二日
1640
脇坂安元の家臣某長左衛門等、伊那郡虎岩村平沢新十郎より、同村郷蔵の預米を請取る、
634
明正
寛永一七年七月二六日
1640
幕府、播麿山崎城主池田輝澄・讃岐高松城主生駒高俊の家中内訌の仕置行届かざるを責め、輝澄を因幡鹿野に、高俊を出羽矢島に配す、尋いで、それぞれ家臣等をも裁し、身柄を仙石政俊・脇坂安元・真田信之・松平万助忠倶、等に預く、
635
明正
寛永一七年七月二九日
1640
是より先、徳川義直、領内百姓の他領へ出づるを停止す、是日、山村良豊、木曽岩之郷村等にその条目を頒つ、
644
明正
寛永一七年七月二九日
1640
真田信重、樋口四郎右衛門等に知行を給す、
645
明正
寛永一七年八月一日
1640
松平万助、忠倶、名代を以つて徳川家光に、八朔の祝儀を贈る
651
明正
寛永一七年八月一一日
1640
幕府、松平忠憲憲良、等に、駿府加番を命ず、
651
明正
寛永一七年八月一一日
1640
諏訪頼水・鳥居忠春等、帰国の暇を賜はる、
652
明正
寛永一七年八月一二日
1640
堀田正盛、筑摩郡恵光院に禁制を掲ぐ、
652
明正
寛永一七年八月一五日
1640
徳川家光、脇坂安元の、堀田正盛の次子甚太郎安政、を養子となすを許す、
653
明正
寛永一七年八月一五日
1640
伊那郡保寿寺・大雄寺・佐久郡安養寺住持伊那郡竜翔寺開山玄芳、梅南、寂す、
655
明正
寛永一七年八月二一日
1640
鳥居忠春、筑摩郡長興寺に寺領を寄進す、
661
明正
寛永一七年八月二三日
1640
諏訪頼水の家臣三輪知友、筑摩郡和泉村の孫兵衛に、同村の前年分年貢納払皆済目録を渡す、
661
明正
寛永一七年八月二四日
1640
真田信之、小川七郎兵衛に知行を給す、
662
明正
寛永一七年九月七日
1640
河野氏朝、同郡相之島村の川成・高成地を改む、 氏利・氏朝の事蹟
663
明正
寛永一七年九月一二日
1640
堀田正盛、家臣千賀善左衛門母等の、尾張知多郡坂井村より筑摩郡松本に移らんとするにより、その木曽福島関通行手形を徳川義直の老臣成瀬正虎等に求む、尋いで、正虎、山村良豊をして、之を勘過せしむ、
666
明正
寛永一七年九月一三日
1640
伊那郡林村の庄右衛門、同郡下瀬村上松権左衛門等より、女を質物として金子を借用す、
667
明正
寛永一七年九月一七日
1640
仙石政俊、小県郡本海野町等を検地す、
668
明正
寛永一七年九月二二日
1640
仙石政俊、小県郡横尾村等の本年年貢高を定む、尋いで、同郡諏訪部村等領内諸村の本年年貢高を定む、
670
明正
寛永一七年九月二三日
1640
真田信之、小幡長右衛門をして、同将監の跡式を安堵せしむ、 将監病むに依り、信之、之を問ふ、
677
明正
寛永一七年九月二五日
1640
松平忠憲、憲良、佐久郡入布施村抜井の新田を検地す、 佐久郡松平忠憲領入布施村中居新田改帳・矢島新田縄帳
679
明正
寛永一七年九月二六日
1640
関三刹、伊那郡竜勝寺の徒の陸奥に下向し、同国曹洞宗僧録の手形なくして、結制安居の首頂僧となりしを擯罸す、 埴科郡長国寺大承、竜勝寺某に答ふ、
682
明正
寛永一七年九月二八日
1640
諏訪頼水、致仕し、子同忠恒、嗣ぐ、
683
明正
寛永一七年九月二八日
1640
是より先、佐久郡新海三社祠官某、同社山宮内匠と、社領につき争論す、是日、同郡三分村の藤右衛門等の仲介により、両者、和解す、
685
明正
寛永一七年一〇月一二日
1640
幕府代官天羽景慶等、高井郡牧村に、本年年貢を割付く、
686
明正
寛永一七年一〇月一四日
1640
脇坂安元、伊那郡時又村の本年年貢高を定む、
687
明正
寛永一七年一〇月一六日
1640
幕府代官設楽能業、佐久郡御所平村等に、本年年貢を割付く、
689
明正
寛永一七年一〇月一八日
1640
是より先、佐久郡松平忠憲憲良、領芦田村の鷹見衆等、諏訪郡諏訪忠恒領鰍原村の馬の、境を越えて同村の巣鷹山に入るに依り、之を抑留す、是日、忠憲、芦田村に命じて、馬を返さしむ、
698
明正
寛永一七年一〇月二〇日
1640
幕府代官近山安俊等、高井郡西条新田村等に、本年年貢を割付く、
699
明正
寛永一七年一〇月二二日
1640
是より先、鳥居忠春の家臣長坂因幡守、越前丸岡城主本多成重家中の女の、越前より伊那郡高遠に向ふにあたり、その木曽福島関通過を山村良豊に依頼す、是日、良豊、越前福井城主松平忠昌家老の手形なくば叶はざる旨を因幡守に告ぐ、
703
明正
寛永一七年一〇月二六日
1640
筑摩郡日置神明社の修造、成る、
703
明正
寛永一七年
1640
幕府代官設楽能業、高井郡高井村に、本年年貢を割付く、
705
明正
寛永一七年
1640
諏訪忠恒、諏訪郡若宮新田肝煎等をして、同郡木間新田を開発せしむ、
707
明正
寛永一七年
1640
松平忠憲憲良、領内村高帳、成る、
708