長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻二十八 (300頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
明正寛永一九年正月一一日1642佐久郡糠尾村の伝兵衛五人組、幕府代官設楽能業に、請書を指出す、300
明正寛永一九年正月一一日1642佐久郡の作右衛門、同郡井出次久より、女を質物として金子を借用す、303
明正寛永一九年正月一七日1642諏訪忠恒、巣鷹山を、諏訪郡赤渋山より同郡東俣山に移す、304
明正寛永一九年正月二二日1642徳川家光、堀田正盛の江戸浅草の下屋敷に臨む、305
明正寛永一九年1642木曽の泉光院、祭文を記す、305
明正寛永一九年二月一日1642是より先、美濃苗木前城主遠山秀友の老臣遠山勘兵衛、秀友の遺子同久太夫友貞、の、女房等と共に江戸へ下らんとするにより、山村良豊に木曽福島関通過を依頼す、是日、良豊、美濃大垣城主戸田氏鉄より女通行手形を受けて通るべきを勘兵衛に報ず、306
明正寛永一九年二月二日1642幕府、佐久郡追分宿等中山道諸宿に、定書を下す、307
明正寛永一九年二月九日1642真田信政等諸大名、徳川家光の世子竹千代家綱、の宮参りに供奉す、313
明正寛永一九年二月二六日1642是より先、伊那郡脇坂安元領上河路村の作右衛門、同村五兵衛の罪せらるるにより、同人家屋敷等を預る、この後作右衛門、江戸に奉公し、再び帰りてその屋敷等を請取らんとするも、同村百姓等、之を拒み、是日、安元奉行所に訴ふ、314
明正寛永一九年三月三日1642真田信之、海野源左衛門をして、同宮内の知行を安堵せしめ、之にその足軽を預く、 信之、宮内の疾を訪ひ物を与ふ、315
明正寛永一九年三月一〇日1642関三刹、信濃僧録埴科郡長国寺に法度を頒布す、長国寺、之を伊那郡竜勝寺に伝達す、 永平寺住持秀察、徳照、竜勝寺末派宝勝寺長竜の瑞世内定の旨を竜勝寺に報ず、317
明正寛永一九年三月一一日1642山村良豊の江戸金杉の屋敷、類焼す、320
明正寛永一九年三月一一日1642山村良豊、徳川義直の家臣鳥井佐五右衛門等より、木曽材木本切の代金を請取る、320
明正寛永一九年三月二三日1642是より先、幕府、仙石政俊に、常陸下館城在番を命ず、是日、政俊、上田を発す、 下館在番中の政俊宛阿部忠秋等の連署状321
明正寛永一九年三月二六日1642佐久郡安原村の女みの、その身を質物に置き、同郡志賀村の丑之助等より、金子を借用す、327
明正寛永一九年四月一日1642脇坂安元、参覲す、328
明正寛永一九年四月三日1642徳川家光、竹千代家綱、を伴ひ、下野日光山東照社に参詣するに依り、松平万助忠倶、・堀直輝等諸大名に命じて江戸城を守衛せしむ、尋いで、家光、江戸を発す、堀田正盛等、之に随ふ、329
明正寛永一九年四月三日1642脇坂安元の家臣渡辺九兵衛、伊那郡柏原の又左衛門をして切開地を永作せしむ、331
明正寛永一九年四月七日1642佐久郡の平右衛門後家、その男子を平右衛門跡職に据えられんことを、同郡井出次久に請ふ、332
明正寛永一九年四月九日1642真田信之、埴科郡大英寺大蓮院に、花立を寄進す、333
明正寛永一九年四月一四日1642真田信之、柳島六左衛門等に定書を付し、百姓に対し非違なからしむ、334
明正寛永一九年五月二日1642山村良豊、木曽谷百姓の飢饉賑救のため、徳川義直より蔵米を借用す、 徳川家光、諸国百姓の飢饉賑救のため巡察使を派遣し、松平正綱等をして、信濃等関東諸国を巡察せしむ、336
明正寛永一九年五月九日1642信濃善光寺、類焼す、338
明正寛永一九年五月一二日1642佐久郡の加兵衛、同郡の茂右衛門と畑を取替ふ、339
明正寛永一九年五月一四日1642是より先、幕府、譜代大名の江戸在府の期を定む、是日、信濃諸大名の内、真田信之・同信政・鳥居忠春・佐久間勝友・松平忠憲憲良、等は本年在府、松平万助忠倶、諏訪忠恒・真田信重・堀直輝等は本年就封と定めらる、 堀直輝の事跡340
明正寛永一九年五月一五日1642仙石政俊、下野日光山に仙石家譜一巻を奉納す、345
明正寛永一九年五月二三日1642幕府老臣等、信濃等凶作の諸国の代官を召し、民情を問ふ、345
明正寛永一九年五月二八日1642是より先、徳川義直、山村良豊に下野日光山東照社造営用桧皮の調達を命ず、是日、良豊、之を承知せる旨を答ふ、346
明正寛永一九年六月一日1642伊那郡幕府代官宮崎道次・同重次・同重綱、伊那郡邑主小笠原長泰・知久直政等、徳川家光に目見えす、 宮崎重次・同重綱・同道次及び小笠原長泰・知久則直・同直政等の事蹟347
明正寛永一九年六月一〇日1642徳川義直、山村良豊をして、社寺境内の鳩の捕獲を禁ぜしむ、351
明正寛永一九年六月一八日1642伊那郡の小野藤蔵・同勘之丞等、同郡の小野長左衛門等に、山地を売渡す、351
明正寛永一九年六月二三日1642幕府、山村良豊に命じ、江戸城本丸台所御用の柾木を木具屋に斡旋せしむ、353
明正寛永一九年六月二九日1642幕府、諸国凶作につき百姓救恤に関する条目を定め、徳川義直に令して、之を木曽等領内に達せしむ、尋いで、また凶作につき条目を定め、義直をして領内に達せしむ、354
明正寛永一九年六月三〇日1642堀田正盛、米屋九右衛門等をして、松本領内の桧材木・薪の伐出し等を請負はしむ、尋いで、九右衛門等、請状を進む、357
明正寛永一九年七月一日1642水内郡長沼城主佐久間勝友、卒す、尋いで、幕府、勝友の子同勝豊権之助、をして、之を嗣がしめ、遺領の内三千石を勝豊の弟同勝興長助、に分知せしむ、362
明正寛永一九年七月三日1642幕府蔵入地預り代官兼遠江日明榑木支配、千村重長等、伊那郡蔵入地より遠江日明へ川下げせる寛永十一年以降の榑木の勘定目録を、幕府勘定所に指出す、365
明正寛永一九年七月八日1642是より先、幕府、蔵奉行等の私曲あるにより、その罪を糺し、蔵奉行山下弥五左衛門を松平万助忠倶、に、同石坂金左衛門を鳥居忠春に、また同朝岡三郎右衛門の長子同理左衛門を堀直輝に、手形書番役高野喜三郎の子同万太郎を忠春に預く、是日、幕府、弥五左衛門等を死罪に処す、尋いで、蔵奉行喜多見長五郎を万助忠倶、に預く、369
明正寛永一九年七月一五日1642是より先、山村良豊、重ねて木曽谷中の飢饉の状を徳川義直に訴ふ、是日、義直、米・麦を借与ふ、374
明正寛永一九年七月一六日1642幕府、松本城主堀田正盛を下総佐倉に移す、尋いで、三河吉田城主水野忠清を松本に移す、377
明正寛永一九年七月二五日1642堀田正盛、筑摩郡八幡宮を修造す、383
明正寛永一九年七月二六日1642伊那郡加養・大中村百姓衆、五郎右衛門尉等に、雑木草の刈取りを許す、385
明正寛永一九年1642大坂城代阿部正次、大坂より木曽路を通り、江戸に下る、386
明正寛永一九年八月二日1642堀田正盛、安曇郡仁科神明に祭礼料を寄進す、尋いで、筑摩郡薄宮等にも寄進す、386
明正寛永一九年八月二日1642山村良豊、徳川義直に木曽波計橋を修理せられんことを請ふ、 徳川義直、良豊に波計橋等三橋普請奉行を命ぜんとす、388
明正寛永一九年八月一四日1642伊那郡虎岩村の内蔵五人組等、同村平沢勘右衛門に、請書を指出す、389
明正寛永一九年八月一九日1642徳川家光、諸宗の本寺に宗派取締条目を頒布す、関三刹、この旨を信濃僧録埴科郡長国寺に下達す、391
明正寛永一九年八月二〇日1642堀田正盛、安曇郡成相新田問屋中に、塩漬蕨・竹運送の郷村伝馬割を申付く、392
明正寛永一九年八月二二日1642脇坂安元の家臣脇坂内膳、伊那郡虎岩村平沢勘右衛門より、本年年貢米を請取る、尋いで、また請取る、 内膳、勘右衛門より、前年分年貢麦・本年分年貢大豆等を請取る、393