長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十八 (500頁~)
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明正
寛永一九年一二月二七日
1642
佐久郡高野町村高見沢庄左衛門、茂左衛門の素性を検校某に上書す、
501
明正
寛永一九年一二月二七日
1642
幕府代官岡上半助の手代市川五兵衛、佐久郡上海瀬村新海与右衛門より、本年山年貢・鉄砲役・六尺給代を請取る、
503
明正
寛永一九年
1642
山村良豊、徳川義直に歳暮を賀し、物を贈る、
504
明正
寛永一九年
1642
小県郡定津院宗雪、嶺室、丹波永沢寺に輪住す、
505
明正
寛永一九年
1642
仙石政俊の家臣青山次左右衛門、小県郡前山村竜光院を修造す、
506
明正
寛永一九年
1642
千村重長、同人支配所遠江豊田郡舟明村伊那榑木の集散所、等の高帳を、幕府勘定所に指出す、 伊那郡南山村の寛永十九年分年貢納払目録
506
明正
寛永一九年
1642
山村良豊、徳川義直に雛鶴の塩漬を贈る、
508
明正
寛永一九年
1642
徳川義直の生母相応院、の葬礼、尾張高岳院に行はる、木曽長泉寺、之に会す、
509
明正
寛永一九年
1642
佐久郡松平忠憲憲良、領上塚原村の新田帳、成る、
509
明正
寛永二〇年正月一日
1643
林道春、羅山、脇坂安元の新年試筆の和歌の脚韻を和して、詩を製し、之を安元に贈る、
515
明正
寛永二〇年正月一一日
1643
山村良豊、美濃久々利の木曽衆知行高の内、役高超過分の堤銀を、千村重長と折半し負担せんことを計る、 山村良豊、美濃木曽衆知行高竝びに上知高を書上ぐ、
515
明正
寛永二〇年正月一一日
1643
高井郡灰野村の庄介、某より金子を借用す、
521
明正
寛永二〇年正月一七日
1643
脇坂安元の家臣脇坂内膳、伊那郡虎岩村平沢勘右衛門より前年分年貢米等を請取る、尋いで、また請取る、 内膳、勘右衛門より、本年年貢米等請取る、また新右衛門知行米並びに炭・稲払筵等を請取る、
521
明正
寛永二〇年二月七日
1643
信濃善光寺大本願智伝、同寺大勧進の、前年の幕府裁許に従はず、新儀の非法を行ふを、幕府寺社奉行に訴ふ、
532
明正
寛永二〇年二月一二日
1643
安曇郡水野忠清領小谷村百姓、組内闕落百姓跡の年貢・家役等を請負ふ、
535
明正
寛永二〇年二月一三日
1643
小県郡仙石政俊領御所村、同村の田畠坪ならし帳を記す、
537
明正
寛永二〇年二月一四日
1643
脇坂安元の家臣小森良安等、安元の家臣佐治六兵衛に給知を渡し、伊那郡長野原の理兵衛をして、之を耕作せしむ、
537
明正
寛永二〇年二月一九日
1643
松平万助、忠倶、高井郡壁田村の本年請免を定む、尋いで、同郡犬飼村等の本年請免を定む、
539
明正
寛永二〇年二月二〇日
1643
関三刹、陸奥にての擯罸僧を信濃僧録埴科郡長国寺に預く、
541
明正
寛永二〇年二月二一日
1643
伊那郡虎岩村、是日より、同村百姓の本年種借米を記す、
542
明正
寛永二〇年二月二四日
1643
佐久郡松平忠憲憲良、領牧布施村、同村名寄帳を記す、
543
明正
寛永二〇年二月二六日
1643
安曇郡多田井村の庄屋九兵衛、同村の喜三郎預りの年貢・諸役の皆済を、同郡古廐・荒屋両村庄屋に約す、
544
明正
寛永二〇年二月二七日
1643
小県郡の太兵衛、同郡の市兵衛より、女を質物として金子を借用す、
545
明正
寛永二〇年
1643
安曇郡の善兵衛等、同郡霊松寺山の刈敷年貢請文を同寺に出す、
546
明正
寛永二〇年三月一日
1643
幕府代官天羽景慶の手代坂原武兵衛、高井郡押切村の利兵衛に、同村寛永十七年分年貢払方の皆済を証す、
546
明正
寛永二〇年三月二日
1643
山村良豊、徳川義直の家臣伊奈七右衛門等より、木曽本切材木の代金を請取る、
548
明正
寛永二〇年三月八日
1643
安曇郡の善左衛門、同郡の七郎兵衛に、忠二郎跡田地・屋敷を預けられんことを請ふて許さる、
549
明正
寛永二〇年三月一〇日
1643
佐久郡の七兵衛、同郡の次兵衛より、金子を借用す、
550
明正
寛永二〇年三月一八日
1643
徳川義直の国奉行服部正吉等、山村良豊・千村重長をして、両人知行所美濃伊支津志村等の百姓の撫育に意を用ひしむ、
550
明正
寛永二〇年三月二四日
1643
徳川義直、山村良豊に令し、乞食・死人の試斬を取締らしむ、
551
明正
寛永二〇年三月二六日
1643
佐久郡上桜井村の長右衛門、六左衛門等より、畑地を借用す、
552
明正
寛永二〇年四月一日
1643
幕府、佐久郡追分宿等中山道諸宿の駄賃を改む、
553
明正
寛永二〇年四月五日
1643
山村良豊、次子同甚之丞良尚、を人質として江戸に遣はす、
558
明正
寛永二〇年四月一七日
1643
水野忠清の家臣近藤角大夫、安曇郡東小谷村に、前年分年貢の納払皆済目録を渡す、 小谷村百姓、同村肝煎の非儀を訴ふ、
563
明正
寛永二〇年四月二〇日
1643
伊那郡の作平、同郡の兵四郎より、金子を借用す、
565
明正
寛永二〇年四月二一日
1643
徳川義直の家臣寺西理左衛門、山村良豊に命じ、義直の江戸屋敷の造営用材を調へしむ、
566
明正
寛永二〇年四月二四日
1643
脇坂安元の家臣渡辺九兵衛、伊那郡虎岩村平沢勘右衛門に、同村前年分の越米払方の手形を渡す、尋いで、また渡す、 渡辺九兵衛、平沢勘右衛門に、虎岩村本年分の越米払方の手形を渡す、
567
明正
寛永二〇年四月二九日
1643
幕府、近藤重直に、甲斐甲府城の守衛を命ず、 重直の事蹟
568
明正
寛永二〇年
1643
松平忠憲憲良、の家臣高木昌綱等、佐久郡与良かわたの役儀を免ず、
570
明正
寛永二〇年五月一一日
1643
脇坂安元等、帰国の暇を賜はる、
570
明正
寛永二〇年五月一四日
1643
水野忠清、山村良豊に、異風鉄砲等を贈る、
571
明正
寛永二〇年五月一九日
1643
僧日利、法灯師僧日樹の供養塔婆を、その配所伊那郡飯田に建つ、
571
明正
寛永二〇年五月二〇日
1643
筑摩郡の次左衛門等、同郡の長右衛門より、金子を借用す、
572
明正
寛永二〇年六月二日
1643
水野忠清・諏訪忠恒等、参覲す、 忠恒の事蹟
572
明正
寛永二〇年六月二日
1643
伊那郡大草村の四郎左衛門等、起請文を以つて、同村の太郎兵衛との縁を絶つべきを約す、
575
明正
寛永二〇年六月一〇日
1643
伊那郡福岡の太兵衛等、同村内の山林を同郡石林の忠次郎に渡す、
576
明正
寛永二〇年六月一一日
1643
木曽宮腰宿、火く、
576
明正
寛永二〇年六月一二日
1643
山村良豊、女三人を江戸より召返さんとし、幕府留守居牧野信成等に、上野横川関通過の手形を請ふ、
578
明正
寛永二〇年六月一七日
1643
幕府、松平忠憲憲良、・鳥居忠春等をして、朝鮮信使聘礼終了の時まで、就封を延期せしむ、
579
明正
寛永二〇年六月二六日
1643
伊那郡邑主座光寺為重の父同為時、卒す、
579
明正
寛永二〇年六月二九日
1643
松平万助、忠倶、高井郡箕作村の本年請免を定む、
582
明正
寛永二〇年七月一日
1643
真田信重、参覲す、 信重の事蹟
583
明正
寛永二〇年七月三日
1643
延暦寺三塔執行天海、南光坊、信濃善光寺を江戸寛永寺末寺となし、定書を付す、
585
明正
寛永二〇年七月二一日
1643
伊那郡文永寺僧徒等、薪山入会のことにつき、同郡野池村大平権兵衛に請文を進む、
587
明正
寛永二〇年八月四日
1643
水野忠清の家臣近藤角大夫、安曇郡大町村の六郎左衛門に、同村前年分年貢の納払皆済目録を渡す、
588
明正
寛永二〇年八月五日
1643
真田信政、帰国の暇を賜はる、 信政の事蹟
589
明正
寛永二〇年八月六日
1643
幕府、鳥居忠春の請に依り、在府を許す、 忠春の事蹟
591
明正
寛永二〇年八月一四日
1643
真田信之、帰国の暇を賜はる、
593
明正
寛永二〇年
1643
伊那郡虎岩村、同村の吉十郎等の小作・手作分等の納高を書上ぐ、
594
明正
寛永二〇年九月一三日
1643
小県郡田沢村の次右衛門等、同村の川押し田畑を記す、
595
明正
寛永二〇年九月一七日
1643
是より先、徳川義直の老臣等、徳川家光の使者酒井忠勝の、後光明天皇即位式列席のため木曽路を通り上洛せんとするにより、その道中接待等を山村良豊に命ず、是日、忠勝、木曽福島に泊る、
596
明正
寛永二〇年
1643
松平忠倶、万助忠政、水内郡諏訪社を建立す、 忠倶の事蹟
597