長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十八 (1頁~)
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西暦
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明正
寛永一七年一一月一日
1640
高遠城主鳥居忠春、伊那郡諏訪形村の本年年貢高を定む、
1
明正
寛永一七年一一月三日
1640
幕府代官近山安成、高井郡西条新田村等の前年分年貢を皆済せるを証す、
2
明正
寛永一七年一一月三日
1640
飯田城主脇坂安元領伊那郡駄科村、同村本年の年貢・小物成納名寄を書上ぐ、 駄科村の寛永十八年年貢定物成後引柿相榑米帳
4
明正
寛永一七年一一月四日
1640
小諸城主松平忠憲、憲良、佐久郡八幡原五郎兵衛新田村等領内諸村の本年免相を定む、
13
明正
寛永一七年一一月五日
1640
脇坂安元の養子同甚太郎、安政、徳川家光に初めて目見えす、また、養父安元・実父松本城主堀田正盛、家光に養子聴許を謝す、
17
明正
寛永一七年一一月七日
1640
小県郡邑主松平忠利、忠節、同郡金井村の本年免相を定む、
18
明正
寛永一七年一一月一四日
1640
堀田正盛、筑摩郡潮村等に、本年年貢の金納分を割付く、
18
明正
寛永一七年一一月一五日
1640
幕府代官岡上景親、佐久郡上海瀬村等に、本年年貢を割付く、
19
明正
寛永一七年一一月二三日
1640
脇坂安元の家臣国木田清大夫、伊那郡虎岩村平沢勘右衛門より、上納漆を請取る、
23
明正
寛永一七年一一月二五日
1640
松城城主真田信之、岩崎主馬に足軽を預く、
24
明正
寛永一七年一一月三〇日
1640
林道春、羅山、脇坂安元の家臣脇坂安頼を訪ひ、安頼所詠の和歌の脚韻を和して、詩を製し、之を安頼に贈る、
25
明正
寛永一七年一一月三〇日
1640
飯山城主松平万助、忠倶、高井郡犬飼村等領内諸村の本年免相を定む、
26
明正
寛永一七年一二月六日
1640
佐久郡幕府領高野町村高見沢庄左衛門、是日より、同村下組の本年蔵米の払出及び同払代金を記す、
29
明正
寛永一七年一二月九日
1640
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
38
明正
寛永一七年一二月一二日
1640
真田信之、白井重左衛門等に知行を給す、尋いで、前島七郎左衛門等にも給す、
39
明正
寛永一七年一二月一五日
1640
幕府代官岡上景親の手代市川五兵衛、佐久郡上海瀬村新海与右衛門より、同村の本年年貢を請取る、 市川五兵衛、与右衛門より、山年貢・鉄砲役・六尺給代等を請取る、
40
明正
寛永一七年一二月一八日
1640
幕府代官設楽能業の手代保坂七兵衛等、佐久郡本新町村より、本年年貢を請取る、
42
明正
寛永一七年一二月一九日
1640
是より先、木曽山村良豊、使者を遣はし、名古屋城主徳川義直の江戸上屋敷の火災を見舞ふ、是日、義直の老臣等、之に答謝す、 良豊、義直の江戸上屋敷作事材木を知行地美濃大湫・日吉山より出す、
43
明正
寛永一七年一二月二〇日
1640
幕府代官岡上景親、佐久郡志賀村に、本年年貢を割付く、
44
明正
寛永一七年一二月二五日
1640
是より先、長沼城主佐久間勝友領水内郡吉村の左吉等、勝友の甥同勝盛領同郡三才村と、同郡田子池の用水につき争論す、是日、両者、番水のことを定めて和解す、
45
明正
寛永一七年一二月二五日
1640
是より先、幕府、信濃等十二箇国に令し、村々をして賊徒を捜捕せしむ、是日、伊那郡虎岩村、その請状を出す、
46
明正
寛永一七年一二月二五日
1640
真田信之、成沢新七をして、同勘左衛門の跡職を知行せしむ、
47
明正
寛永一七年一二月二七日
1640
佐久郡の勘左衛門等、同郡の六左衛門より金子・籾を借り、その代償として同人より受領せる田地を返還す、
48
明正
寛永一七年一二月二九日
1640
堀田正盛、侍従に任ぜらる、
48
明正
寛永一七年
1640
高井郡須坂邑主堀直輝領同郡綿内村本郷、本年の有高目録を記す、
49
明正
寛永一七年
1640
伊那郡幕府蔵入地預り代官兼遠江日明榑木支配、千村重長支配役所、同郡の榑木山より本年採出せる諸村の榑木員数を注す、
51
明正
寛永一八年正月一日
1641
林道春、羅山、脇坂安元の新年試筆の和歌の脚韻を和して、詩を製し、之を安元に贈る、
53
明正
寛永一八年正月一四日
1641
前高島城主諏訪頼水、頼満、諏訪に卒す、
53
明正
寛永一八年正月一六日
1641
徳川家光、堀田正盛の江戸浅草の下屋敷に臨む、尋いで、また臨む、
78
明正
寛永一八年正月一七日
1641
徳川家光、江戸城内紅葉山東照社に参詣す、堀田正盛等、之に供奉す、
79
明正
寛永一八年正月二四日
1641
神道管領長上吉田兼里、高井郡幸高村諏訪社祠官山岸吉次をして、その職を嗣がしめ、風折烏帽子・狩衣の着用を允可す、また、同郡河田村神明社祠官湯本勝正にも允可す、
80
明正
寛永一八年正月二五日
1641
徳川義直、山村良豊に、知行所美濃中津川山より採出せる寛永十一年分の材木・板子の、同国錦織役所通過を許す、
81
明正
寛永一八年正月二七日
1641
江戸西河岸の材木問屋長島作蔵、小県郡石合道定に、白木の算用目録を渡す、
82
明正
寛永一八年正月三〇日
1641
江戸大火、脇坂安元・佐久間勝友・同勝盛・真田信之・徳川義直等の屋敷、類焼す、
83
明正
寛永一八年二月一日
1641
水内郡戸隠山別当・更級郡八幡社祠官等、徳川家光に目見えす、
85
明正
寛永一八年二月八日
1641
佐久郡の人依田盛繁、卒す、
86
明正
寛永一八年二月一九日
1641
松平忠憲憲良、の家臣石垣久綱等、佐久郡平原村の屋敷反別を改む、
86
明正
寛永一八年二月二〇日
1641
佐久郡高野町村の九兵衛等、同村高見沢庄左衛門尉に、次左衛門尉の子たんの身請状を指出す、
88
明正
寛永一八年二月二一日
1641
山村良豊、徳川義直の家臣朝倉市郎兵衛等より、木曽材木本切の前金を請取る、尋いで、また材木本切の代金等を請取る、
89
明正
寛永一八年二月二一日
1641
佐久郡御馬寄村の助右衛門、同郡次右衛門の、新田の百姓たらんことを望むにより、所左衛門に請状を出す、
92
明正
寛永一八年二月二三日
1641
徳川家光、江戸城に宴を張り諸大名を饗す、真田信之、疾に依り参仕せず、
92
明正
寛永一八年二月二五日
1641
真田信之、老臣出浦半平の病篤きに依り、その願を容れ、跡職を同織部に安堵せしむべきを約す、 信之の出浦半平宛書状等
93