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天皇 | 年月日 | 西暦 | 記事 | 頁 |
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後宇多 | 弘安三年八月一六日 | 1280 | 信濃の駒牽あり、 | 202 |
後宇多 | 弘安五年八月一六日 | 1282 | 信濃の駒牽あり、 | 202 |
後宇多 | 弘安六年八月一六日 | 1283 | 信濃の駒牽あり、 | 203 |
後宇多 | 弘安七年五月二〇日 | 1284 | 鎌倉幕府、新式目卅八箇条を制定し、出羽・陸奥を除く東国御牧を止めしむ、 | 204 |
後宇多 | 弘安九年三月一五日 | 1286 | 紀伊西方寺住持覚心、(無本、心地房)、法華経一部を書写し、同寺に納む、 | 204 |
後宇多 | 弘安九年八月一六日 | 1286 | 信濃の駒牽あり、 | 206 |
後宇多 | 弘安九年一二月二二日 | 1286 | 尼妙法、安曇郡仁科神明に懸仏を寄進すの条、 北安曇郡神城村神明宮及び大町市宮本仁科神明宮所蔵の銅製懸仏等のこと、 | 206 |
伏見 | 弘安一〇年六月二一日 | 1287 | 伊勢豊受大神宮、左中将藤原俊輔の、安曇郡矢原御厨を蓮華王院領と称して押領するを訴ふ、 | 207 |
伏見 | 弘安一〇年八月一六日 | 1287 | 信濃の駒牽あり、 | 209 |
伏見 | 弘安一〇年九月一七日 | 1287 | 藤原親世、信濃守に任ぜらる、 | 210 |
伏見 | 正応二年三月一五日 | 1289 | 是より先、信濃の僧西念、長命寺を武蔵足立郡に開く、是日、西念、寂す、 | 210 |
伏見 | 正応五年四月二四日 | 1292 | 某、十不二門文心解を、小県郡塩田庄常楽寺に書写す、 | 211 |
伏見 | 正応五年閏六月二日 | 1292 | 宋僧円空、大般若経を書写して、筑摩郡浅間社に納むの条、(追加) | 211 |
伏見 | 永仁元年八月一六日 | 1293 | 信濃の駒牽あり、 | 212 |
伏見 | 永仁三年三月二九日 | 1295 | 山内時通、筑摩郡下平田郷内公田地頭職等を、子通綱・通氏等に譲るの条、 山内通綱、同通資に所領を譲る、 | 213 |
伏見 | 永仁三年八月一六日 | 1295 | 信濃の駒牽あり、 | 213 |
伏見 | 永仁五年九月二日 | 1297 | 知久敦幸、諏訪社上社神宮寺に銅鐘を寄進すの条、(追加) | 214 |
後伏見 | 永仁六年一〇月一三日 | 1298 | 紀伊西方寺(興国寺)・山城妙光寺開山覚心、(無本心地房)、寂すの条、(追加) | 214 |
後二条 | 乾元元年八月一六日 | 1302 | 信濃の駒牽あり、 | 217 |
後二条 | 嘉元元年八月一六日 | 1303 | 信濃の駒牽あり、 | 218 |
後二条 | 嘉元三年六月七日 | 1305 | 是より先、赤木家忠の三男同忠光の子忠澄、家忠の嫡男同忠綱の子盛忠と、家忠の遺領筑摩郡吉田郷内等の田屋敷につき相論し、和与の儀を以つて、忠澄、之を領知す、是日、幕府、之を認む、 | 218 |
後二条 | 徳治元年八月一六日 | 1306 | 信濃の駒牽あり、 | 219 |
後二条 | 徳治二年五月 | 1307 | 北条貞時、円覚寺毎月四日大斎に勤仕すべき直臣を結番す、諏訪六郎左衛門等、その中に加へらるの条、 諏訪六郎左衛門入道の鎌倉宿所、火く、 | 220 |
後二条 | 徳治二年八月一六日 | 1307 | 信濃の駒牽あり、 | 221 |
後二条 | 延慶元年八月一六日 | 1308 | 信濃の駒牽あり、 | 221 |
花園 | 延慶二年八月一六日 | 1309 | 信濃の駒牽あり、 | 222 |
花園 | 正和二年八月一六日 | 1313 | 信濃の駒牽あり、 | 222 |
花園 | 正和二年一二月二五日 | 1313 | 某、諏波私注を書写す、 | 223 |
花園 | 正和三年一〇月三日 | 1314 | 教益、(姓を闕く、)山城高山寺に、更級郡四宮庄を渡付す、 | 225 |
花園 | 正和四年三月八日 | 1315 | 鎌倉大火、幕府及び諏訪真性等の屋敷等、焼亡す、 | 226 |
花園 | 正和四年四月一三日 | 1315 | 伊賀頼泰、所領筑摩郡麻績御厨矢倉郷等の地を、子光貞に譲る、尋いで、幕府、光貞をして、之を安堵せしむの条、 伊賀盛光代麻績盛清軍忠のこと、 | 227 |
花園 | 正和四年八月一六日 | 1315 | 信濃の駒牽あり、 | 229 |
花園 | 正和五年四月二五日 | 1316 | 三善康基、更級郡石川庄二柳郷内惣領分の名田を、某に売渡す、 | 229 |
後醍醐 | 元応元年一〇月二日 | 1319 | 諏訪顕重、諏訪社上社中島阿祢陀堂に、梵鐘を寄進す、 中野市常楽寺所蔵の観音菩隆像銘 | 231 |
後醍醐 | 元亨二年八月一六日 | 1322 | 信濃の駒牽あり、 | 232 |
後醍醐 | 正中元年八月一七日 | 1324 | 信濃の駒牽延引し、是日、行はる、 | 232 |
後醍醐 | 嘉暦元年八月一六日 | 1326 | 信濃の駒牽あり、 | 233 |
後醍醐 | 元徳二年二月一五日 | 1330 | 花園上皇、山城大徳寺に佐久郡伴野庄等を寄進すの条、(追加) | 233 |
後醍醐 | 南朝元弘元年・北朝元徳三年七月二日 | 1331 | 花園上皇、山城大徳寺をして、同寺領佐久郡伴野庄等の知行を全うせしむの条、(追加) 伴野庄に関する某の宗峯宛書状 | 234 |
後醍醐 光厳 | 元弘元年一二月二一日 | 1331 | 某、武蔵称名寺領水内郡太田庄大倉郷内名田を同寺に注進すの条、(追加) | 235 |
後醍醐 光厳 | 南朝正慶元年・北朝元弘二年一二月二八日 | 1332 | 道鍳、水内郡小河庄おの山郷を、あいくま丸に譲る、 佐久郡大井・水内郡小川両庄に関する某書状 | 235 |
後醍醐 | 元弘三年五月二二日 | 1333 | 北条高時、鎌倉東勝寺に自害し、諏訪真性等、之に殉ずの条、(追加) | 236 |
後醍醐 | 元弘三年七月六日 | 1333 | 征夷大将軍護良親王、綸旨に任せ、山城大徳寺をして、佐久郡伴野庄を安堵せしむ、 | 238 |
南朝後醍醐 北朝光明 | 建武元年八月 | 1334 | 後醍醐天皇、雑訴決断所の寄人を増し、信濃国等東山道諸国、三番に属し、諏訪円忠等、之を掌すの条、(追加) | 238 |
南朝後醍醐 北朝光明 | 南朝延元二年・北朝建武四年八月一六日 | 1337 | 信濃の駒牽あり、 | 239 |
南朝後醍醐 北朝光明 | 南朝延元三年・北朝暦応元年三月一八日 | 1338 | 高梨定仏の女源氏、弟忠保と、高井郡東条庄内山田郷小馬場村の在家田畠を争論す、高梨経頼等一族、之を裁し、源氏女の代高梨時綱をして、之を領知せしむ、(追加) | 239 |
南朝後醍醐 北朝光明 | 南朝延元四年・北朝暦応二年八月一六日 | 1339 | 後醍醐天皇、吉野に崩じ、足利尊氏・同直義、諏訪円忠等を天竜寺建立奉行人に定むの条、(追加) | 241 |
南朝後醍醐 北朝光明 | 南朝延元四年・北朝暦応二年八月一六日 | 1339 | 信濃の駒牽あり、 | 242 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国元年・北朝暦応三年四月二一日 | 1340 | 諏訪円忠、天竜寺造営木造始に参候し、また、足利尊氏の寺領寄進状を草すの条、(追加) | 242 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国元年・北朝暦応三年七月一三日 | 1340 | 山城天竜寺造営曳地の儀あり、諏訪円忠、之に参仕す、 | 245 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国三年・北朝康永元年一月二九日 | 1342 | 花園上皇、山城仁和寺花園御所跡の地を、妙心寺慧玄(開山)、に寄進すの条、(追加) | 246 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国三年・北朝康永元年三月二七日 | 1342 | 山城天竜寺造営礎始、諏訪円忠、之に参仕す、 | 247 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国三年・北朝康永元年八月一六日 | 1342 | 信濃の駒牽あり、 | 247 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国三年・北朝康永元年一二月五日 | 1342 | 剌使並びに足利尊氏・同直義、天竜寺上棟綱引及び禄引乃儀に臨む、小笠原貞宗等、之に供奉すの条、(追加) | 247 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国四年・北朝康永二年二月二〇日 | 1343 | 信濃守護小笠原貞宗、島津宗久跡代官等の、武蔵称名寺領水内郡太田庄大倉郷地頭職を違乱するを停むの条、(追加) | 251 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国五年・北朝康永三年一月二四日 | 1344 | 北朝除目、中原重直、信濃大掾に任ぜらるの条、(追加) | 251 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国五年・北朝康永三年八月一二日 | 1344 | 是より先、蔵人広橋兼綱、光明天皇より駒牽の近年不法なるを責めらるるに依り、信濃国司久我長通に旨を伝ふ、長通、之を肯ぜず、責めを右馬寮々家に転ず、是日、兼綱、同院公賢を訪ひ、その処置を相談す、 | 252 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国五年・北朝康永三年八月一六日 | 1344 | 信濃の駒牽あり、 | 252 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国六年・北朝貞和元年二月六日 | 1345 | 光厳上皇、国毎に建立する寺院の通号を安国寺と定む、信濃に於いては、諏訪郡に疎石(夢窓)、開剏するところの寺院を之に充つの条、(追加) | 253 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国六年・北朝貞和元年八月一〇日 | 1345 | 蔵人坊城俊冬、中原師守に、月蝕に依る駒牽延引の例を問ふ、師守、之に答申す、 | 254 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国六年・北朝貞和元年八月一六日 | 1345 | 信濃の駒牽あり、 | 257 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝興国六年・北朝貞和元年八月二九日 | 1345 | 足利尊氏・同直義、天竜寺供養の儀に臨む、小笠原政長等、供奉を勤むの条、(追加) | 258 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝正平元年・北朝貞和二年八月一六日 | 1346 | 信濃の駒牽あり、 | 261 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝正平元年・北朝貞和二年九月二〇日 | 1346 | 是より先、武蔵称名寺雑掌、島津宗久跡代官等の、同寺領水内郡太田庄大倉郷地頭職を違乱するを幕府に訴ふ、是日、幕府、信濃守護小笠原貞宗に令して、代官等の違乱を停め、雑掌をして之を安堵せしむの条、 大倉郷に関する某の書状等 | 262 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝正平元年・北朝貞和二年一二月二日 | 1346 | 信濃の僧播磨法雲寺住持良聡、(聞渓)、その師友梅(雪村)、の示寂を悼む、 | 264 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝正平二年・北朝貞和三年八月一六日 | 1347 | 信濃の駒牽あり、 | 265 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝正平二年・北朝貞和三年一二月三日 | 1347 | 山内時通、所領筑摩郡下平田郷地頭職等を子熊寿丸(通継)、に譲るの条、 山内通継の代官道円、手継証文目録を注す、 | 265 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝正平三年・北朝貞和四年三月一一日 | 1348 | 松殿忠冬、水内郡小河庄を子同忠隆に譲る、 | 267 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝正平三年・北朝貞和四年八月一六日 | 1348 | 信濃の駒牽あり、 | 267 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝正平四年・北朝貞和五年八月一九日 | 1349 | 信濃の駒牽、延引し、是日、行はる、 | 268 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝正平五年・北朝観応元年九月二八日 | 1350 | 信濃の駒牽、延引し、是日、行はる、 | 268 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝正平五年・北朝観応元年一〇月一一日 | 1350 | 僧静弁、義科相伝抄を、小県郡依田庄越智福是山に書写す、 | 269 |
南朝後村上 北朝光明 | 南朝正平六年・北朝観応二年六月一〇日 | 1351 | 島津宗久代官等の、水内郡太田庄大倉郷地頭職を違乱するを停むの条、(追加) 上杉憲顕、祢津孫次郎をして、諸人の太田庄大倉郷に違乱するを停めしむ、 | 269 |
後村上 | 南朝正平七年・北朝観応三年四月一〇日 | 1352 | 足利尊氏、諏訪左近蔵人をして、陸奥の南党討伐に合力せしむの条、(追加) | 270 |
南朝後村上 北朝後光厳 | 南朝正平九年・北朝文和三年六月二七日 | 1354 | 石塔義基、諏訪二郎三郎をして、陸奥の南党討伐に合力せしむの条、(追加) | 271 |
南朝後村上 北朝後光厳 | 南朝正平一一年・北朝延文元年八月一六日 | 1356 | 信濃の駒牽、延引す、 | 271 |
南朝後村上 北朝後光厳 | 南朝正平一二年・北朝延文二年八月一六日 | 1357 | 信濃の駒牽を停む、 | 272 |
南朝後村上 北朝後光厳 | 南朝正平一三年・北朝延文三年八月一六日 | 1358 | 信濃の駒牽、延引す、 | 272 |
南朝後村上 北朝後光厳 | 南朝正平一五年・北朝延文五年六月七日 | 1360 | 後光厳天皇、山城東福寺前住持師錬(虎関)、の撰述せる元亨釈書を大蔵経中に入れ、天下に流伝するを聴さる、尋いで、同国三聖寺前住持師頊(五峯)、等諸五山の禅僧、偈頌を製して之を慶賀す、同国建仁寺如是院主妙在、(此山)、之に与る、 | 273 |
南朝後村上 北朝後光厳 | 南朝正平一九年・北朝貞治三年八月一六日 | 1364 | 信濃の駒牽を停む、 | 274 |
南朝後村上 北朝後光厳 | 南朝正平一九年・北朝貞治三年 | 1364 | 幕府奉行諏訪円忠、卒すの条、(追加) | 275 |
南朝後村上 北朝後光厳 | 南朝正平二〇年・北朝貞治四年四月一四日 | 1365 | 水内郡戸隠山中院義養坊、聖教を書写す、 | 276 |
南朝後村上 北朝後光厳 | 南朝正平二一年・北朝貞治五年八月二七日 | 1366 | 幕府、上杉朝房をして、武蔵金陸寺領小県郡浦野庄西馬越郷の地を同寺に渡付せしむの条、(追加) | 276 |
南朝後村上 北朝後光厳 | 南朝正平二二年・北朝貞治六年三月五日 | 1367 | 佐久郡大井庄矢島郷の人報応、聖教を書写す、 | 277 |
南朝長慶 北朝後光厳 | 南朝正平二四年・北朝応安二年一二月二三日 | 1369 | 信濃の人大井掃部頭某、(名闕く)、相摸瑞泉寺住持周信(義堂)、を同寺に訪ひ、問法す、 | 277 |
南朝長慶 北朝後光厳 | 南朝建徳元年・北朝応安三年三月一五日 | 1370 | 上杉朝宗、信濃の陣より周信(義堂)、に使僧を送り、亡父憲藤二十三回忌の供養を請ふ、 | 278 |
南朝長慶 北朝後光厳 | 南朝建徳元年・北朝応安三年五月 | 1370 | 山城南禅寺住持妙在、(此山)、同寺結制に蔵主寮に拠つて秉払せる周通(玄峯)、に謝語を与ふ、 | 279 |
南朝長慶 北朝後円融 | 南朝建徳二年・北朝応安四年二月八日 | 1371 | 信濃の人大井掃部某、(名闕く)、相摸瑞泉寺住持周信(義堂)、を訪ふ、 | 280 |
南朝長慶 北朝後円融 | 南朝建徳二年・北朝応安四年四月七日 | 1371 | 上水内郡中条村の石造宝篋印塔、成る、 | 280 |
南朝長慶 北朝後円融 | 南朝建徳二年・北朝応安四年八月一六日 | 1371 | 信濃の駒牽、延引す、 | 281 |
南朝長慶 北朝後円融 | 南朝建徳二年・北朝応安四年九月二四日 | 1371 | 山城祇園社顕詮、同国建仁寺如是院に同院主妙在(此山)、を訪ふ、 | 282 |
南朝長慶 北朝後円融 | 南朝文中元年・北朝応安五年三月一三日 | 1372 | 是より先、頓阿、(泰尋)、信濃善光寺に詣づ、是日、頓阿、卒す、 | 282 |
南朝長慶 北朝後円融 | 南朝文中三年・北朝応安七年三月四日 | 1374 | 信濃守護上杉朝房、豊原信秋に使者を遣はし、茶に招かんとす、 | 283 |
南朝長慶 北朝後円融 | 南朝天授元年・北朝永和元年二月二七日 | 1375 | 群議あり、信濃・美濃両国鈎文を捧ぐ、 | 284 |
南朝長慶 北朝後円融 | 南朝天授三年・北朝永和三年一月一二日 | 1377 | 相摸円覚寺住持如在(此山)、寂すの条、(追加) | 284 |
南朝長慶 北朝後円融 | 南朝天授三年・北朝永和三年一二月四日 | 1377 | 山城東福寺海蔵院塔主霊見、(性海)、同院檀越近衛道嗣を訪ふ、 | 285 |
南朝長慶 北朝後円融 | 南朝天授五年・北朝康暦元年一月一七日 | 1379 | 尾張守多々良弘保、北朝に越中並びに信濃両国の間の国守を望む、 | 286 |
南朝長慶 北朝後円融 | 南朝天授五年・北朝康暦元年八月一六日 | 1379 | 信濃の駒牽あり、 | 286 |
南朝長慶 北朝後円融 | 南朝弘和二年・北朝永徳二年八月一三日 | 1382 | 伊勢豊受大神宮祢宜度会貞昌、信濃の僧覚心(無本、心地房)、将来の袈裟を伊勢蓮台寺住持大殊(別峯)、に譲る、 | 287 |
南朝後亀山 北朝後小松 | 南朝弘和三年・北朝永徳三年八月一六日 | 1383 | 信濃の駒牽、延引す、 | 288 |
南朝後亀山 北朝後小松 | 南朝元中六年・北朝康応元年七月四日 | 1389 | 足利義詮、山城東福寺海蔵院塔主霊見(性海)、をして、同院領鳥羽田及び黙耕庵敷地等を安堵せしむ、 楞伽寺文書目録中に水内郡若槻庄内押田郷寄附状を載す、 | 289 |
南朝後亀山 北朝後小松 | 南朝元中六年・北朝康応元年八月一六日 | 1389 | 信濃の駒牽延引す、 | 290 |
南朝後亀山 北朝後小松 | 南朝元中六年・北朝康応元年一二月一三日 | 1389 | 北佐久郡北御牧村の石造宝篋印塔、成る、 中野市如法寺の石造宝篋印塔、成る、 | 290 |
南朝後亀山 北朝後小松 | 南朝元中八年・北朝明徳二年四月五日 | 1391 | 飯山市五荷の木造薬師如来像、成る、 | 291 |
後小松 | 明徳四年八月一六日 | 1393 | 信濃の駒牽を停む、 | 292 |
後小松 | 応永五年八月一六日 | 1398 | 信濃の駒牽あり、 | 292 |
後小松 | 応永六年八月一六日 | 1399 | 信濃の駒牽あり、 | 293 |
後小松 | 応永六年一一月六日 | 1399 | 大内義弘、和泉に叛す、小笠原長秀、幕府の召に応じ、市川興仙、(頼房)、等を催して伊那郡伊賀良庄を発すの条、(追加) | 293 |
後小松 | 応永七年八月一六日 | 1400 | 駒牽あり、信濃国、駒を牽進せず、 | 294 |
後小松 | 応永八年八月一六日 | 1401 | 信濃の駒牽、延引す、 | 294 |
後小松 | 応永一四年八月一六日 | 1407 | 信濃の駒牽あり、 | 295 |
後小松 | 応永一七年三月一八日 | 1410 | 木曽郡大桑村の木造観音菩隆像、成る、 | 295 |
後小松 | 応永一九年一月二八日 | 1412 | 除目、久我清通、信濃介に任ぜらる、 | 296 |
後小松 | 応永一九年八月一六日 | 1412 | 信濃の駒牽あり、 | 297 |
称光 | 応永二〇年二月一日 | 1413 | 除目、信濃小掾・同権目を任ず、 | 297 |
称光 | 応永二三年八月一六日 | 1416 | 信濃の駒牽あり、 | 298 |
称光 | 応永二四年七月一日 | 1417 | 藤原成愛、水内郡琵琶島弁才天の大般若経を修理す、 | 298 |
称光 | 応永二四年八月一六日 | 1417 | 信濃の駒牽あり、 | 299 |