長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」補遺編-上(500頁~)
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正親町
天正一〇年一二月九日
1582
徳川家康、五味菅十郎等信濃の士に、甲斐に於いて所領を宛行ふの条(追加)
600
正親町
天正一〇年一二月一五日
1582
信濃の人村上景国、宇津江正吉に音信す、
601
正親町
天正一一年正月一三日
1583
上杉景勝、水内郡飯山城将岩井信能に、信越境の雪解を待ちて、佐久郡に出陣せんとする旨を告ぐ、
602
正親町
天正一一年正月二四日
1583
是より先、小県郡竹石村等の諸士、徳川家康に叛く、家康、加津野信昌に書を送り、それに備へしめ、併せて真田昌幸の家康に属し、人質をして老母を送れるを褒す、
602
正親町
天正一一年正月
1583
信濃等五箇国門徒衆、摂津本願寺光佐顕如、、に、旧冬礼物の過分を訴ふ、仍りて、光佐、之に答へ、勧進帳を送る、
604
正親町
天正一一年閏正月二四日
1583
小笠原貞慶、安曇郡満願寺をして、寺領を安堵せしむの条、
安曇郡満願寺住持全恵、仁王護国般若経を書写す、
605
正親町
天正一一年二月一四日
1583
是より先、北条氏直、佐久郡小諸城より敗退す、祢津昌綱等、同城に入り、上杉景勝に応ず、是日、景勝、水内郡飯山城将岩井信能に命じ、海津・長沼城将等と相談し之を援けしむ、
605
正親町
天正一一年二月二八日
1583
上杉景勝の将直江兼続、大峡織部佐に令し、高井郡井上五十人衆をして、軍役を勧めしむ、
606
正親町
天正一一年三月二四日
1583
上杉景勝、越中在陣の上野九兵衛をして、須田満親の指図に随ひ、戦功を励ましむ、
607
正親町
天正一一年三月二六日
1583
徳川家康、松平依田、康国をして、父信蕃の遺跡を嗣がしむ、康国、同信守の同心衆を定むの条、(追加)
608
正親町
天正一一年三月二八日
1583
徳川家康、土屋倫重をして、甲斐所在の所領を安堵せしむ、その中に信濃知行分の替地あり、
608
正親町
天正一一年三月二九日
1583
上杉景勝、越後春日山より水内郡飯山城に鉄炮の玉薬を送らんとし、諸所領主をして宿送人夫を出さしむ、
609
正親町
天正一一年四月一日
1583
知久頼竜、宮下筑後守に、伊那郡川野郷の地を宛行ふの条、(追加)
610
正親町
天正一一年四月二日
1583
上杉景勝の将直江兼続、水内郡葛山衆をして、安曇郡千見城の守備を厳にせしむ、
611
正親町
天正一一年四月一二日
1583
上杉景勝、更級郡牧之島城将芋川親正に、佐久郡の情勢を伝へ、仕置を堅固にせしむ
612
正親町
天正一一年四月一三日
1583
真田昌幸、小県郡海ヶ淵に城を築く、上杉景勝、信濃諸将をして、之を攻めしめんとす、また島津泰忠をして、埴科郡虚空蔵山に移り戦を監せしむの条、(追加)
612
正親町
天正一一年四月二二日
1583
徳川家康、信濃平定に依り帰陣せんとする旨を羽柴秀吉に、報ず、
613
正親町
天正一一年五月七日
1583
小笠原貞慶、安曇郡横内伝次の奉公を賞し、軍役の鉄炮五挺を召連るることを許す、
614
正親町
天正一一年五月一三日
1583
上杉景勝、埴科郡海津城将村上景国に、謀叛の嫌疑あるに依り、越後に召還し、上条義春宜順、を同城将たらしむ、
615
正親町
天正一一年五月一九日
1583
布施景直、岡田十左衛門尉に、更級郡岡田の地を宛行ふべきを約すの条、(追加)
616
正親町
天正一一年五月二一日
1583
是より先、更級郡牧之島城将芋川親正、安曇郡仁科氏を攻めて之を破る、是日、上杉景勝、親正の功を賞す、
617
正親町
天正一一年六月一日
1583
伊那郡知久頼氏、従四位下に叙せらる、
618
正親町
天正一一年七月三日
1583
上杉景勝、佐々成政の越後西浜新地を襲はんとすとの風聞あるにより、水内郡飯山城将岩井信能をして、春日山城に入り、守備を厳にせしむの条、
上杉景勝、岩井信能の端午の祝儀に答謝す、
618
正親町
天正一一年七月一五日
1583
真田昌幸、林弾左衛門に、上野須河原の地を宛行ふ、
619
正親町
天正一一年七月二五日
1583
木曽興禅寺住持玄聡、東巌、寂す、
619
正親町
天正一一年八月一日
1583
信濃の人須田信正、某に監物姓闕く、の跡職を宛行ふ、
621
正親町
天正一一年九月五日
1583
徳川家康丸山東市佐をして、本領小県郡丸子郷等の地を安堵せしむ、
621
正親町
天正一一年九月
1583
上杉景勝、水内郡長沼城将島津忠直に令し、同郡野尻新町を郡司不入とし、諸役免除せしむ、
622
正親町
天正一一年一一月一一日
1583
水内郡飯山城将岩井信能、越中在陣の上杉景勝に戦勝を祝し物を贈る、是日、景勝、之を謝し、信能をして、埴科郡海津城将上条義春宜順、の下知に従はしむ、
623
正親町
天正一二年三月七日
1584
上杉景勝、更級郡牧之島城将芋川親正にに、安曇郡大野田の築城を命ず、
624
正親町
天正一二年三月二八日
1584
上杉景勝、更級郡牧之島城将芋川親正の、堺目守備に於ける軍功を褒す、
景勝の芋川親正宛書状
624
正親町
天正一二年三月二九日
1584
是より先、木曽義昌、尾張在陣の羽柴秀吉を存問す、是日、秀吉、同国小牧山に於ける徳川家康の陣況を義昌に報ず、尋いで、また、同国長久手の戦況を報ずの条、
626
正親町
天正一二年四月二一日
1584
上杉景勝の軍、小笠原貞慶の軍を筑摩郡麻績城に迎へ討ちて之を破る、景勝、検使島津泰忠に書を送り、泰忠及び侍衆の戦功を褒すの条、(追加)
628
正親町
天正一二年四月二五日
1584
上杉景勝、信濃の平定成れるにより、新発田重家を撃たんがため、出陣せんとする旨を、築地資豊に告ぐの条、(追加)
630
正親町
天正一二年四月二六日
1584
上杉景勝、信濃奥四郡の諸士を、埴科郡虚空蔵山に移して敵に備へしむの条、(追加)
631
正親町
天正一二年四月二七日
1584
屋代秀正、尾張長久手に在陣中の徳川家康を存問す、家康、是に答へ、併せて油断を戒むの条、(追加)
徳川家康、屋代秀正の賀歳に答ふ、
633
正親町
天正一二年五月二八日
1584
筑摩郡広沢寺・同郡保福寺・伊那郡竜勝寺前住持全瑞、光庵、寂す、
633
正親町
天正一二年六月三日
1584
上杉景勝、信濃の人山田修理亮等の知行地を郡司不入となす、
635
正親町
天正一二年六月二五日
1584
是より先、木曽義昌、伊勢在陣の羽柴秀吉に書を送り、小笠原貞慶の兵の、木曽に攻入りしを報じ、援を乞ふ、是日、秀吉、之に答へ、美濃金山の森仙蔵を木曽に遣はすべきを約す、
635
正親町
天正一二年六月二六日
1584
是より先、直江兼続、木曽義昌に使者を遣はす、是日、使者、上杉景勝の将桐沢具繁等の許に帰着し、義昌の小笠原貞慶と対陣せるを報ず、
636
正親町
天正一二年七月二八日
1584
越中在陣の須田満親、吉江宗清に、知行を宛行ふ、
637
正親町
天正一二年七月
1584
保科正直、徳川家康の妹を娶る、
637
正親町
天正一二年八月一日
1584
上杉景勝、信濃に出陣せんとし、旨を高井郡井上達満に伝へ、出陣の用意を命ず、
638
正親町
天正一二年八月五日
1584
徳川家康、保科正直をして、菅沼定利の指揮に従ひ、木曽義昌を撃たしむの条、(追加)
638
正親町
天正一二年八月一六日
1584
羽柴秀吉、上杉景勝に条目を送り、景勝と徳川家康との和融を認め、且つ信濃郡境のことは秀吉の意見を容るべきを提言す、
639
正親町
天正一二年九月一一日
1584
上杉景勝、岩井靭負助の奉公を賞し、埴科郡坂木等の地を宛行ふ、
641
正親町
天正一二年九月一二日
1584
水内郡飯山城将岩井信能、上野の浦野民部少輔等に書を送り、羽尾源六郎在所のこと落居に関し、民部少輔の功を上杉景勝に申上ぐべきを約す、
641
正親町
天正一二年九月一三日
1584
越中在陣の須田満親、小嶋内膳佐等に書を送り、満親の子満義の、上杉景勝に従ひ、出陣するに依り、その扶助を依頼す、
642
正親町
天正一二年九月一三日
1584
関繁国、水内郡神代村出雲社に、地を寄進す、
643
正親町
天正一二年九月一八日
1584
上杉景勝、前田利家と呼応し、須田満親をして、佐々成政の属城越中境を攻めしむの条、(追加)
643
正親町
天正一二年一二月二五日
1584
越中佐々成政、信濃を経て、遠江浜松に到り徳川家康に謁すの条、
越中寺島職定、同国芦峅寺門前をして諸商人等の百姓等の信濃に赴くを留めしむ、
644
正親町
天正一三年正月二日
1585
上杉景勝、高井郡夜交頼国の賀歳に答謝す、
646
正親町
天正一三年五月一二日
1585
円〓、大僧都祐元依り受明潅頂を受く、
647
正親町
天正一三年七月一五日
1585
真田昌幸、上杉景勝に異心なき旨を誓ふ、景勝、昌幸に誓書を与へ、知行等を安堵すの条、(追加)
648
正親町
天正一三年閏八月二日
1585
真田昌幸・同信幸父子、徳川家康の兵を小県郡国分寺に迎撃して、之を破るの条、(追加)
648
正親町
天正一三年閏八月二六日
1585
徳川家康、岡部弥次郎等の、小県郡丸子の戦功を賞すの条、(追加)
信濃の人蔦木盛次、甲府城番を勤む
651
正親町
天正一三年九月一八日
1585
北条氏直、上野沼田城に、真田昌幸の将矢沢綱頼を攻む、上杉景勝、綱頼の子頼幸を新発田陣より沼田に赴援せしめ、更に助勢を遣はすべきを告ぐの条、(追加)
654
正親町
天正一三年九月二二日
1585
上杉景勝の将村上景国等、直江兼続に書を送り景勝の音物を謝し、併せて城普請の過半成就せるを披露されんことを請ふ、
655
正親町
天正一三年一〇月二日
1585
徳川家康、中沢清正に、佐久郡小宮山・岩村田の地を宛行ふ、
656
正親町
天正一三年一一月一九日
1585
羽柴秀吉、徳川家康を攻めんとし、真田昌幸をして、甲斐・信濃のことを計らしむの条、(追加)
657
正親町
天正一三年一一月二八日
1585
上杉景勝、高井郡夜交領国の歳暮の祝儀に答謝す、
659
正親町
天正一三年一二月一〇日
1585
上杉景勝、埴科郡海津城将須田満親に、信濃四郡の将士の仕置に関し条目を付す、
660
正親町
天正一三年一二月一四日
1585
小笠原貞慶、徳川家康と絶ち、保科正直を伊那郡高遠城に攻む、正直、之を郤くの条、(追加)
660
正親町
天正一四年二月一二日
1586
真田昌幸、矢島主殿助に、佐久郡岩村田の地を宛行ふの条、(追加)
661
正親町
天正一四年三月二七日
1586
上杉景勝、高井郡井上達満の、鷂を贈りしを謝す、
661
正親町
天正一四年四月一七日
1586
上杉景勝の将直江兼続、高山仁助・八町伝助に、高井郡田中等の地を宛行ふ、
662
正親町
天正一四年六月二〇日
1586
上洛中の上杉景勝、夜交佐近助に近く帰国せんとする旨を告げ、留守を堅固にせしむの条、(追加)
663
正親町
天正一四年八月
1586
上杉景勝、新発田重家を攻めんとし、越後赤野川に陣す、高梨頼親等信濃の将士、之に随ふ、
664
正親町
天正一四年九月二五日
1586
羽柴秀吉、上杉景勝に書を送り、真田昌幸成敗の儀を停むの条、(追加)
666
後陽成
天正一五年二月
1587
筑摩郡徳雲寺嶺州、同寺の徒正策に、普門品相承之事の切紙を伝援す、
668
後陽成
天正一五年三月五日
1587
上杉景勝、黒金宮内少輔に書を送り、新発田重家の軍を越後篠岡に邀撃せるを賞し、併せて、信・越両口の備を固め、自ら重家退治に出馬せんとする旨を告ぐ、
669
後陽成
天正一五年八月一五日
1587
小県郡良泉寺の看坊宗廓、同寺住持となる、尋いで、宗廓、入院す、
670
後陽成
天正一五年九月一七日
1587
上杉景勝、信濃の人大室高貞に、新発田重家討伐の状況を報ず、
670
後陽成
天正一六年正月五日
1588
上杉景勝、高井郡井上達満の賀歳を謝す、
671
後陽成
天正一六年二月一五日
1588
某、筑摩郡小野社に戸帳を寄進す、
672
後陽成
天正一六年四月一五日
1588
小笠原貞慶、領内のかわたに筑摩郡松本城下への移住を命ず、尋いで、かわた町整備を命ず、
石川三、かわたに皮一枚宛の指出を命ず、
672
後陽成
天正一六年四月二一日
1588
上杉景勝、越後府内奏の行方六右衛門に命じ、信濃の人香坂氏昌の兵糧を、越前三国湊まで運ばしむ、
674
後陽成
天正一六年五月一九日
1588
上杉景勝の将直江兼続、高井郡井上達満に、上洛中の景勝の近況を報ず、
上洛中の景勝、井上達満の物を贈れるを謝す、
675
後陽成
天正一六年一〇月二二日
1588
伊那郡諏訪・磯並両社の建立、成る、
676
後陽成
天正一六年
1588
伊那郡の人松岡貞利、徳川家康により、駿府に虜へらる、
677
後陽成
天正一七年二月二四日
1589
徳川家康、須田満親に書を送り、上杉景勝よりの音問に答謝す、
677
後陽成
天正一七年三月二三日
1589
豊臣秀吉、池田輝政をして、人数を木曽に遣はし、材木運送に従はしむ、
678
後陽成
天正一七年七月
1589
上杉景勝、芦田氏の家臣平田福範の参仕を賞し、越後上田に於いて、信濃衆知行分の残地を宛行ふ、
679
後陽成
天正一七年八月
1589
水内郡大安寺住持正宥、舜嶺、某に天童十三則目録を伝授す、
679
後陽成
天正一七年九月九日
1589
豊臣秀吉、小笠原信嶺等に命じて、京都大仏殿の材木を駿河冨士山より引かしむの条、(追加)
680
後陽成
天正一七年一〇月二日
1589
上杉景勝、信濃の人横田大学助に、大塩在城を命じ、在城料として越後野尻・中津河の地を宛行ふ、
680
後陽成
天正一七年一一月六日
1589
上洛中の須田満親、信濃の人浦野能登守の、馬を贈れるを謝す、
681
後陽成
天正一七年一一月二一日
1589
北条氏邦の兵、真田昌幸の属城上野名胡桃城を奪ふ、豊臣秀吉、北条氏直の不義を怒りて、討伐を決意し、諸大名に令して、小田原出陣の準備をなさしむの条、(追加)
681
後陽成
天正一七年一一月二三日
1589
徳川家康、五味太郎左衛門の功を賞し、甲斐比野郷内の地を宛行ふの条、(追加)
683
後陽成
天正一七年一二月一一日
1589
是より先、豊臣秀吉、北条氏邦に、上野沼田・同吾妻の両城を渡し、真田昌幸を京都に留む、是日、氏邦、狩野越後守にその旨を伝ふ、
684
後陽成
天正一八年正月七日
1590
徳川家康、信濃の人屋代秀正等三人をして、甲斐逸見筋一万五千石の地を分領せしむ、
685
後陽成
天正一八年正月九日
1590
豊臣秀吉、上杉景勝のために、信濃に援軍を送るべきを報じ、併せて、小笠原貞慶との争を停めしむの条、(追加)
688
後陽成
天正一八年二月二日
1590
前田利家、豊臣秀吉の命に依り、上杉景勝・真田昌幸等を先勢とし、信濃を経て上野に入らんとし、伊達政宗に之を報じ、出陣を促すの条、(追加)
徳川家康、小田原陣に当り、小田切昌吉に佐久郡岩村田城を、市岡忠吉に、伊那郡飯田城の守衛を命ず、
688
後陽成
天正一八年三月一三日
1590
前田利家、原孫右衛門の、木曽楢井宿陣取に協力せるを賞し、能登・加賀・越中に於いて商売を許し、諸役を免除すの条、
前田利家、千村十左衛門尉の、木曽三留野村陣取の功を賞す、
689
後陽成
天正一八年三月一五日
1590
前田利家・上杉景勝等の先勢、佐久郡碓氷峠に、北条氏直の将大道寺政繁と戦ひて敗るの条、(追加)
690
後陽成
天正一八年三月一八日
1590
松平依田、康国北条氏直の党依田昌朝等を佐久郡阿江木白岩に破る、豊臣秀吉、徳川家康をして、その功を褒せしむの条、(追加)
690
後陽成
天正一八年四月二〇日
1590
真田昌幸・同信幸、前田利家・上杉景勝と、上野松井城を囲む、大道寺政繁、降るの条、(追加)
691
後陽成
天正一八年七月五日
1590
小笠原貞政、秀政、相模大磯に北条氏直の兵と戦ひて、功を立つ、小田原城陥るの条、(追加)
692
後陽成
天正一八年七月一三日
1590
豊臣秀吉、北条氏の遺領を徳川家康に与へ、また、諏訪頼忠等家康麾下の信濃の諸将を関東に移し、仙石秀康秀久、・石川康正数正、等を信濃の各地に封ずの条、(追加)
693
後陽成
天正一八年七月二九日
1590
是より先、豊臣秀吉、真田昌幸をして、上野沼田領を安堵せしめんことを、徳川家康に慫慂す、是日、家康、之を諾す、
698
後陽成
天正一八年七月
1590
豊臣秀吉、徳川家康の旧領信濃等五箇国内に、地下人に関する条目を頒つ、
699
後陽成
天正一八年八月二四日
1590
水内郡信叟寺住持豊隆、興山、当門派之切紙を書す、
700
後陽成
天正一八年一〇月二四日
1590
石川光吉、古畑十兵衛等に、木曽谷中社寺への寄進地目録を記し与ふの条、
古畑十兵衛等の木曽定勝寺宛の書状
702
後陽成
天正一八年一一月五日
1590
毛利秀頼の家臣篠治秀政、鷲津忠右衛門尉に、伊那郡赤沢等の地を宛行ふ、
702
後陽成
天正一八年一二月一〇日
1590
真田昌幸、唐津玄蕃丞をして、上野吾妻郡内の本領を安堵せしむ、尋いで、鈴木与八郎をして、本領を安堵せしむ、
703
後陽成
天正一八年一二月一五日
1590
豊臣秀吉、徳川家康をして、陸奥大崎・葛西氏の遺臣等の一揆を討伐せしめんとし、是日その陣列を定む、毛利秀頼・真田昌幸等、之に加はる、
704
後陽成
天正一九年正月一九日
1591
仙石秀康、秀久、佐久郡小諸城に入るの条、(追加)
705
後陽成
天正一九年正月
1591
伊那郡の人知久則直、相模小田原城に於いて、徳川家康に謁す、
706
後陽成
天正一九年三月六日
1591
仙石秀康、秀久、京都を発し、大坂に著く、
本年中の仙石秀康の動静、
707
後陽成
天正一九年一一月一五日
1591
毛利秀頼、伊那郡大草の内諸村の検地を行ふの条、
伊那郡下殿岡村検地帳
708
後陽成
天正一九年一一月
1591
伊那郡開善寺、毛利秀頼の家臣浅井九兵衛等に、寺領田地帳を指出す、
718
後陽成
天正一九年一二月二七日
1591
是より先、諏訪社上社権祝矢島某、下総多古の保科正直に玉会を贈る、是日正直、之に答謝すの条、(追加)
721
後陽成
天正一九年
1591
徳川家康、伊那郡の人市岡忠吉をして、武蔵府中に於いて、三百石を知行せしむ、
722
後陽成
文禄元年三月一八日
1592
仙石秀康・石川康正等、京都を発し、肥前名護屋に向ふの条、(追加)
723
後陽成
文禄元年一一月一八日
1592
仙石秀康、秀久、従五位下に叙せられ、越前守に任ぜらるの条、(追加)
724
後陽成
文禄元年一二月一三日
1592
徳川家康、木曽義昌・小笠原秀政等諸大名に、肥前名護屋出陣を命ずの条、(追加)
724
後陽成
文禄元年一二月一四日
1592
是より先、松本城主石川康正、卒す、是日、京都七条河原に葬礼あり、(文禄二年十二月十四日の条を移す)
725
後陽成
文禄元年一二月二八日
1592
徳川家康、諏訪頼忠をして、上野伊波郡惣社の地を領地せしむの条、(追加)
726
後陽成
文禄二年二月
1593
神戸秀次、伊那郡知久平八幡社に、社領を寄進す、
726
後陽成
文禄二年六月
1593
佐久郡の人森山利盛、卒す、
727
後陽成
文禄二年八月二〇日
1593
上杉景勝の将直江兼続、信濃の人立岩喜兵衛に弓・鉄炮を需む、
728
後陽成
文禄三年二月一一日
1594
大谷吉継、幌・幟竿の調製のことにつき、高井郡の人大滝土佐守に尋ぬ、
729
後陽成
文禄三年三月一二日
1594
小県郡安楽寺開山塔再建、成る、小幡薩摩守、兄同信貞追薦のため、之を助縁す、
730
後陽成
文禄三年八月
1594
仙石秀康、秀久、崇源院豊臣秀吉の養女、の徳川秀忠の許に嫁するに随ひ、江戸に下る、尋いで、徳川家康・秀忠より刀等を与へらる、
731
後陽成
文禄三年九月二五日
1594
仙石秀康、秀久、山城北野社梅順坊能閑に、文禄元・二両年分知行金銀を届く、
732
後陽成
文禄三年一一月二日
1594
真田昌幸、従五位下に叙せられ、伊豆守に任ぜらる、(追加)
保科正光従五位下に叙せらる、
732
後陽成
文禄三年一二月二〇日
1594
真田昌幸・大熊五郎左衛門尉に、信濃の知行知の替地として、上野石黒村の地を宛行ふ、
733
後陽成
文禄四年正月二五日
1595
仙石秀康、山城北野社に詣づ、
仙石氏一族、北野社十川能閑等としばしば音信往復す、
734
後陽成
文禄四年正月二八日
1595
豊臣秀吉、一柳直末等をして、木曾・飛騨の材木を、近江柏原に届けしむ、
浅野幸長、徳川秀忠の命に依り木曽材木を沙汰すること、及び秀忠より暇を得て、中山道を経て帰国せんとし、是日、諏訪に参著す、
742
後陽成
文禄四年三月一三日
1595
木曽義昌、下総阿地土に卒すの条、(追加)
744
後陽成
文禄四年六月二九日
1595
是より先、京極高知、豊臣秀吉の命を請け、伊那郡より大坂城修築用の木瓦を大坂に送る、是日、秀吉、石川光吉をして、木瓦を請取らしむの条、
秀吉、駿河府中の城主中村一氏をして、駿河諸湊の帆舟を天竜河口に聚め、伊那郡飯田城主京極高知に渡さしむ、
745
後陽成
文禄四年七月二六日
1595
豊臣秀吉、同秀次をして、紀伊高野山に自殺せしむ、松平、依田、康真、康実、江戸に在りて、山城伏見の徳川秀忠に使者を送り連絡すの条、(追加)
746
後陽成
文禄四年七月二八日
1595
豊臣氏五奉行、佐藤方政をして、尾張犬山城主木曽代官、石川光吉より請取れる木曽榑木を、近江朝妻に届けしむ、
746
後陽成
文禄四年七月
1595
山城本願寺住持光昭、准如、水内郡真光寺了念所持の方便法身画像に裏書を加ふ、
747