長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」補遺編-上(500頁~)
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正親町
天正六年八月一六日
1578
上杉景勝、越後坂戸城将深沢利重の請に依り、島津泰忠を坂戸に遣はし、共に同国広瀬に出動せしむ、
501
正親町
天正六年八月二三日
1578
武田勝頼、島津泰忠等の軍役を定むの条、(追加)
502
正親町
天正六年九月一日
1578
上杉景勝、水内郡大滝新兵衛尉等に所領を宛行ふの条、(追加)
502
正親町
天正六年九月二〇日
1578
上杉景勝、高井郡の人井上達満の家臣宮越新五郎の越後在府の功を賞し、地を宛行ふ、
503
正親町
天正六年九月二六日
1578
上杉景勝、越後柿崎本領を遠藤惣左衛門等に還付す、村上国清、之に添状を送る、
504
正親町
天正七年二月二五日
1579
武田勝頼、市川新六郎をして、高井郡小菅と越後赤沢の間に人家を置き、両地往復の便を計らしむ、
506
正親町
天正七年三月二一日
1579
備前、姓闕く、伊那郡小野社に、戸帳を寄進す、
506
正親町
天正七年四月五日
1579
筑摩郡徳雲寺住持正頓、南室、空塵書を書写す、尋いで、正頓、之を正盛、安室、に授与す、
507
正親町
天正七年六月三〇日
1579
信濃の人村上景国、酒井某に、安部右京進跡式等を宛行ふ、
508
正親町
天正七年八月一九日
1579
武田勝頼、上杉景勝と和睦し、是日、景勝に起請文を送る、
509
正親町
天正七年八月
1579
水内郡大安寺正宥、舜嶺、天童十三則目録及び七仏以前血脈切紙を伝授す、
510
正親町
天正八年二月二七日
1580
伊那郡の田村又二郎、同郡堀越新左衛門より女子を質物として、米を借用す、
511
正親町
天正八年五月六日
1580
真田昌幸、森下又左衛門に書を送り、上野猿ヶ京静謐の後、同国須川村の地を宛行ふべきを約すの条、(追加)
512
正親町
天正八年五月一九日
1580
真田昌幸、小川可遊斎に、上野沼田城在城を命じ、知行を宛行ふ、
513
正親町
天正八年六月一九日
1580
武田勝頼、僧某出羽房、を更級郡西明坊住持とし、併せて東陽坊・西光坊のことを計らはしむ、
514
正親町
天正八年六月二七日
1580
武田勝頼、森下又左衛門に、上野沼田城攻略の後、所領を宛行ふべきを約すの条、(追加)
515
正親町
天正八年六月二九日
1580
是より先、水内郡飯山城将岩井信能、越後中郡在陣の上杉景勝に物を贈る、是日、景勝、之に答謝す、
516
正親町
天正八年六月三〇日
1580
真田昌幸、上野倉内城将藤田信吉の、武田勝頼に款を通じ、同城を明渡せしを勝頼に報ずの条、(追加)
516
正親町
天正八年七月一日
1580
是より先、上野小川可遊斎、武田勝頼に同国名胡桃の地を与へられんことを請ふ、是日、勝頼、既に同地知行人の定まれるを以つて替地を与へんことを約す、真田昌幸、之を奉ず、
518
正親町
天正八年七月一二日
1580
上杉景勝、越後三条城の普請を終へ、近く春日山城に帰るべき旨を、岩井信能に告ぐの条、(追加)
519
正親町
天正八年八月
1580
佐久郡竜雲寺住持全祝、北高、某のため秉炬仏事を行ふ、
520
正親町
天正八年九月二八日
1580
是より先、小県郡良泉寺住持嫩養、天渓、盗賊のため害せらる、尋いで、矢沢綱頼、、同寺を再興し、上野柱昌住持玄廓然室、を請じて住持たらしむ、是日、玄廓、入院す、
520
正親町
天正八年一〇月七日
1580
上杉景勝、越後糸魚川の陣より、同国春日山城将岩井信能等に書を送り、守備を厳にせしむ、
521
正親町
天正八年一二月二九日
1580
武田勝頼、真下但馬に、信濃河北の内反町分の地を、城昌茂に、同稲付辻屋分の地を宛行ふ、
522
正親町
天正九年正月九日
1581
武田勝頼、高井郡市川信房をして、猟師の巣山出入を制限せしむ、
524
正親町
天正九年二月七日
1581
能登畠山義隆の老臣長綱連等、上杉景勝の将岩井信能等の越中の陣に書を送り、景勝の能登・越中への出馬を請ふ、
524
正親町
天正九年二月一八日
1581
上杉景勝の将菅生綱輔、須田満親よりの情報に拠り、越中在陣の斎藤朝信等に、同国西口への助勢を指示す、
526
正親町
天正九年二月一九日
1581
上杉景勝、諏訪左近に、本田石見守本領の半分を宛行ふ、
527
正親町
天正九年二月二一日
1581
武田勝頼、小川可遊斎に、知行を宛行ふことを約す、真田昌幸、之を奉ずの条、(追加)
527
正親町
天正九年二月二八日
1581
小県郡良泉寺住持玄廓、然室、同寺を退き、上野柱昌院に帰住し、宗廓、同寺看坊となる、
528
正親町
天正九年二月
1581
木曽義昌、木曽興禅寺に禁制を掲ぐの条、
木曽の宮腰昌弘、木曽興禅寺の戦況を報ずるに答へ、近く帰陣すべきを伝ふ、
528
正親町
天正九年四月四日
1581
上杉景勝の将狩野秀信、越中松倉在陣の島津泰忠に答報し、抜駆の功名を誡め、併せて信濃口の様子を報ず、
529
正親町
天正九年五月一五日
1581
武田勝頼、高井郡市川信房の進上せる巣鷹を、甲府に送らんとし、同郡より甲府迄の諸郷に命じて継送せしむ、
530
正親町
天正九年五月二二日
1581
小笠原貞慶、和田善勝坊に、信濃に帰国せば、本領筑摩郡西和田の地を安堵せしむべきを約す、
531
正親町
天正九年六月一〇日
1581
小笠原貞慶、色部長真に、小笠原家日取一流の儀等を伝授す、
532
正親町
天正九年八月二四日
1581
真田昌幸の兵、上野津久田を攻めて、之を破る、
533
正親町
天正九年八月
1581
伊那郡竜勝寺正瑞、雪庵、鎮盛之切紙を水内郡大安寺正盛安室、に伝授す、
534
正親町
天正九年一一月四日
1581
上杉景勝、越後春日山城将岩井信能の、酒肴を送れるに答謝し、併せて越中表の陣況を報ず、
534
正親町
天正一〇年二月一六日
1582
木曽義昌、伊那谷を北進せる織田信忠の兵に呼応して、木曽谷を鳥居峠に進み、武田勝頼の将今福昌和と戦ひて、之を破るの条、(追加)
535
正親町
天正一〇年二月
1582
梵達、不舶、白山誕生一色の切紙を書す、
538
正親町
天正一〇年三月一日
1582
織田信長、河尻秀隆・織田信忠に、出馬の期を告ぐの条、(追加)
539
正親町
天正一〇年三月二日
1582
織田信忠、伊那郡高遠城を攻めて、之を陥れ、城将仁科盛信を斬るの条、(追加)
540
正親町
天正一〇年三月一一日
1582
武田勝頼及び子信勝等、織田信忠の軍に破れ、甲斐田野に自殺すの条、(追加)
542
正親町
天正一〇年三月一三日
1582
織田信長、伊那郡根羽に着陣し、武田勝頼の首を実検し、之を同郡飯田に梟すの条、(追加)
544
正親町
天正一〇年三月一五日
1582
上杉景勝の将竹俣房綱等、水内郡牟礼に参陣し、景勝の指図を待つ、
545
正親町
天正一〇年三月一六日
1582
佐久郡小諸城下曽根賢範、岳雲軒、武田信豊を殺し、首級を伊那郡飯田の織田信長に進むの条、(追加)
546
正親町
天正一〇年三月一八日
1582
安曇郡仁科盛福寺の徒祐舜、十行出仮を書写す、
546
正親町
天正一〇年三月一九日
1582
織田信長、伊那郡飯田より上諏訪に移陣すの条、(追加)
547
正親町
天正一〇年三月二三日
1582
秀景、姓闕く、信濃の戦況を徳川家康に報ず、
547
正親町
天正一〇年三月二四日
1582
滝川一益、中野藤大良等に、佐久郡芦田分の地を宛行ふ、
548
正親町
天正一〇年三月
1582
織田信長、伊那郡大島町等に禁制を掲ぐの条、(追加)
550
正親町
天正一〇年四月二日
1582
上杉景勝、諸将をして、水内郡長沼城を攻略せしむの条、(追加)
551
正親町
天正一〇年四月三日
1582
木曽義昌、羽生某をして、羽生の跡職を嗣がしむ、
552
正親町
天正一〇年四月四日
1582
上杉景勝、信濃在陣の千板景親等に書を送り、水内郡芋川・外様の者の協力を勧めしむ、
553
正親町
天正一〇年四月五日
1582
森長可、小幡昌虎をして知行を安堵せしむの条、(追加)
554
正親町
天正一〇年五月二七日
1582
森長可、信濃より越後に迫り、上杉景勝、越中天神山より、春日山に兵を引くの条、(追加)
555
正親町
天正一〇年六月一六日
1582
是より先、水内郡芋川親正、広居忠家を介し、上杉景勝に属さんことを申出づ、是日、景勝、島津忠直をして、親正に戦功を励むべきを伝へしむ、
景勝、芋川親正の戦功を賞す、
555
正親町
天正一〇年六月一七日
1582
徳川家康、中沢清秀の味方に馳参ぜしを賞し、佐久郡岩村田・岩尾両城を預け、知行を安堵せしむ、
556
正親町
天正一〇年六月二二日
1582
上杉景勝の将直江兼続、小県郡の人浦野能登守に答報し、景勝の明後日水内郡長沼に着陣すべき旨を告ぐ、
557
正親町
天正一〇年六月二七日
1582
信濃の人原豊前守等、直江兼続を介し、上杉景勝に知行を望む、是日、兼続、景勝の水内郡長沼参着を待ちて、直に申上ぐべきを伝ふ、
558
正親町
天正一〇年六月二七日
1582
越中松倉城将須田満親、同国土肥政繁の将有沢図書の忠功を賞し、地を与ふの条、
上杉景勝、有沢図書をして、須田満親に合力して越中防備に当らしむ、
559
正親町
天正一〇年六月二八日
1582
上杉景勝、平林正恒をして、在所の仕置油断なからしむの条、
上杉景勝、信濃の人平林正恒の音問せるに答へ、留守中油断なからしむ、
560
正親町
天正一〇年七月四日
1582
越中金山在城の須田満親、安部入道に、同国小井手の地を宛行ふ、
561
正親町
天正一〇年七月六日
1582
伊那郡の諸士等、下条頼安及び徳川家康に起請文を進め、忠節を誓ふ条、(追加)
561
正親町
天正一〇年七月一二日
1582
北条氏直、依田信蕃を攻む、徳川家康、柴田康忠をして、信蕃を赴援せしむの条、(追加)
566
正親町
天正一〇年七月一三日
1582
上杉景勝、島津忠直を水内郡長沼城主たらしめ、忠直及び同忠泰等に所領を宛行ふ、
570
正親町
天正一〇年七月一五日
1582
北条氏政、宇津木下総守等をして、番所を依田源五等に預け、参陣すべきを命ず、
574
正親町
天正一〇年七月一五日
1582
北条氏直、赤見山城守等の、氏直に属せるを褒し、知行を宛行ふべきを約す、
575
正親町
天正一〇年七月一九日
1582
上杉景勝、川中島に出陣し、佐久郡在陣の北条氏直と戦はんとおす、氏直、戦はずして退くの条、(追加)
575
正親町
天正一〇年七月一九日
1582
依田信守、佐久郡伴野を攻む、徳川家康、信守等の戦功を賞すの条、(追加)
576
正親町
天正一〇年七月一九日
1582
上杉景勝、水内郡長沼城将島津忠直に令し、高井郡中野平の人脚を以つて、兵糧を越後より同城へ運ばしむ、
577
正親町
天正一〇年七月二六日
1582
上杉景勝、更級郡牧島城将芋川親正に、条目を付す、
578
正親町
天正一〇年七月二六日
1582
上杉景勝、信濃四郡諸城の検使西方房家・ 楠川将綱をして、一騎合手明の者の新恩の子とを取計らしむ、
578
正親町
天正一〇年八月一日
1582
上杉景勝、信濃に在りて今井源左衛門に書を送り、越後新発田重家討伐のため出陣を促すの条、(追加)
579
正親町
天正一〇年八月三日
1582
徳川家康の将酒井忠次等、北条氏直の大軍を率ゐて来るを聞き、諏訪郡高島の囲を解き、同郡乙骨に退くの条、(追加)
580
正親町
天正一〇年八月三日
1582
上杉景勝、水内郡芋川親正の本領知行地を郡司不入となす、
581
正親町
天正一〇年八月五日
1582
上杉景勝、信濃の将岩井信能の子同信能の軍役を、上倉治部少輔と同格とす、
582
正親町
天正一〇年八月七日
1582
徳川家康、辻弥兵衛の家康に属し、妻子を人質として信濃の陣に送れるを賞し、知行を宛行ふ、
583
正親町
天正一〇年八月七日
1582
上杉景勝、水内郡上高野等の地を同郡長沼に付け置き、島津忠直をして給人を撰ばしむ、また、水内郡葛山の地も長沼に付け、葛山衆に定書を与ふの条、(追加)
583
正親町
天正一〇年八月一〇日
1582
徳川家康、今井与三兵衛をして、甲斐の知行地並びに信濃知行分の替地を安堵せしむ、
家康、今井与三兵衛に、信濃知行分の得替を給す、
584
正親町
天正一〇年八月二〇日
1582
徳川家康、伊那郡在駐の菅沼定利に命じ、下伊那の出陣せざる衆をして、同地に於いて普請役に従はしむ、
585
正親町
天正一〇年八月
1582
木曽義昌、その室を木曾の上村作左衛門に預く、
586
正親町
天正一〇年九月三日
1582
上杉景勝の将直江兼続、更級郡綱島頼繁の、景勝の納馬の祝儀として酒肴を贈れるに答謝す、
587
正親町
天正一〇年九月一九日
1582
上杉景勝の将直江兼続、信濃四郡より棟別米を徴せんとし、その掟を定む、
587
正親町
天正一〇年九月二三日
1582
徳川家康、市川又兵衛の佐久郡芦田小屋に於ける戦功を賞し、甲斐に於いて地を宛行ふ、
588
正親町
天正一〇年九月二八日
1582
徳川家康、加津野信昌・依田信蕃等をして、真田昌幸に説きて、家康に属せしめ、昌幸に所領を宛行ふの条、(追加)
589
正親町
天正一〇年一〇月五日
1582
小笠原貞慶、横内伝次に、安曇郡松川郷の地を宛行ふ、
589
正親町
天正一〇年一〇月六日
1582
上杉景勝の将直江兼続、信濃の人山田豊前守に、景勝の越後新発田より帰陣せるを報じ、冬中に信濃出陣の志ある旨を告ぐ、
590
正親町
天正一〇年一〇月二四日
1582
是より先、真田昌幸・依田信蕃、佐久郡伴野と同郡小諸の間に進出す、是日、北条氏直、垪和伊予守等に命じ、守備を堅固にせしむ、
592
正親町
天正一〇年一〇月二五日
1582
北条氏直、猪俣能登守に命じ、佐久郡内山に移り、真田昌幸に備へしむ、
593
正親町
天正一〇年一〇月二五日
1582
上杉景勝、水内郡長沼城将島津忠直に令し、普請役に付ては、郡司不入の地と雖も、人夫役を徴せしむ、
593
正親町
天正一〇年一一月四日
1582
佐久郡前山城主伴野某、徳川家康の命に応ぜず、柴田康忠等、依田信蕃と共に之を攻めて降す、尋いで、同郡高棚・小田井・岩村田の諸城を攻むの条、(追加)
594
正親町
天正一〇年一一月五日
1582
北条氏直、倉賀野淡路守をして、上野衆を佐久郡小諸城将大道寺政繁の許に送らしむ、
595
正親町
天正一〇年一一月七日
1582
徳川家康、塚原六右衛門尉等の信濃の本領を改め、甲斐に於いて替地を宛行ふの条、(追加)
595
正親町
天正一〇年一一月一〇日
1582
上杉景勝、桜藤七郎をして、水内郡桜郷の地を安堵せしむ、
597
正親町
天正一〇年一一月一五日
1582
上杉景勝、信濃の人栗田民部助の、景勝の越後新発田よりの納馬を祝し、物を賜れるを謝す、
597
正親町
天正一〇年一一月二一日
1582
足利義昭、須田満親に書を送り、上杉景勝をして、柴田勝家を和睦し、義昭入洛に協力せしむべき様取計らしむ、
598
正親町
天正一〇年一一月
1582
伊那郡箕輪城主藤沢頼親、徳川家康の命に従はず、保科正直、攻めて城を抜くの条、(追加)
599
正親町
天正一〇年一一月
1582
上杉景勝、高井郡の人岩船忠秀に越中の御料所を預け、信濃・越中の諸所領主をして、赴任のための宿送人夫を出さしむ、
599