長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」補遺編-上(300頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
称光応永二五年七月二八日1418権大外記中原康富、小笠原持長を訪ふ、 この後、康富、持長を訪ふ、301
称光応永二五年八月一六日1418信濃の駒牽あり、302
称光応永二六年五月一〇日1419伊那郡瑞光寺前住持温如、寂す、302
称光応永二七年八月一六日1420是より先、信濃国雑掌調則綱、貢馬の解文を進む、是日、信濃の駒牽あり、303
称光応永二八年八月一六日1421信濃の駒牽、延引く、304
称光応永二八年一〇月一〇日1421信濃等十一箇国に令し、采女養料を進めしむ、305
称光応永二九年八月一六日1422信濃の駒牽あり、305
称光応永三〇年八月一六日1423是より先、信濃国雑掌調則綱、貢馬の解文を進む、是日、信濃の駒牽あり、306
称光応永三〇年九月三〇日1423上杉武庫禅門、信濃より上洛し、是日、京都に到る、308
称光応永三一年八月一六日1424信濃の駒牽あり、308
称光応永三一年一一月二日1424望月良仙、諏訪大明神を近江小杣治村に勧請し、神田を寄進す、309
称光応永三二年一月三〇日1425除目、平治直、信濃権守に、藤原隆脩、同権介に任ぜらる、310
称光応永三二年八月一六日1425信濃の駒牽あり、311
称光応永三三年八月一六日1426信濃の駒牽あり、312
称光応永三四年八月一六日1427信濃の駒牽あり、312
後花園正長元年八月一六日1428信濃の駒牽を停む、313
後花園永享元年八月一六日1429是より先、信濃国雑掌調則教、貢馬の解文を進む、是日、駒牽あり、313
後花園永享三年八月一六日1431信濃の駒牽あり、315
後花園永享五年八月一六日1433信濃の駒牽あり、316
後花園永享六年六月五日1434芦田盛政、子同盛久に所領を譲る、その中に不知行地高井郡木嶋郷あり、316
後花園永享六年八月一六日1434信濃の駒牽あり、318
後花園永享九年八月一六日1437信濃の駒牽あり、318
後花園永享九年八月一八日1437村上頼清、幕府に降り、是日、上洛して将軍足利義教に謁すの条、 筑前の麻生弘家、村上頼清討伐のため、上使として信濃に下向す、319
後花園嘉吉元年八月一六日1441信濃の駒牽あり、320
後花園嘉吉二年八月一六日1442信濃の駒牽あり、320
後花園嘉吉二年一一月1442信濃の人山城建仁寺禅居庵の徒清啓、(天与)、某の請に応じて、陶弘景聴松図に賛語を加ふ、321
後花園嘉吉三年四月一一日1443山城平野社臨時祭、信濃介冷泉為冨、宣命使を勤む、322
後花園嘉吉三年四月一五日1443月輪家輔、信濃善光寺参詣のため、京都を発す、323
後花園嘉吉三年八月一六日1443信濃の駒牽あり、323
後花園文安元年八月一六日1444信濃の駒牽あり、324
後花園文安四年九月九日1447信濃の駒牽、延引し、是日、行はる、324
後花園文安四年一〇月二三日1447紀伊熊野社道珍、信濃国等の檀那職を実報院道義に譲る、327
後花園文安五年八月一六日1448信濃の駒牽あり、328
後花園宝徳元年八月一六日1449信濃の駒牽あり、329
後花園宝徳二年六月一日1450筑摩郡若沢寺の鰐口、成るの条、 北安曇郡白馬村西沢時則氏所蔵の鰐口銘330
後花園宝徳二年八月一六日1450信濃の駒牽あり、330
後花園宝徳三年四月八日1451更級郡明徳寺の銅製灯篭、成る、331
後花園宝徳三年八月一六日1451是より先、信濃国雑掌調則綱、貢馬の解文を進む、是日、駒牽あり、332
後花園宝徳三年一一月一五日1451小笠原光康、向殿に於いて中原康冨と座す、333
後花園享徳元年八月一六日1452信濃の駒牽あり、334
後花園享徳二年八月一六日1453信濃の駒牽あり、334
後花園享徳三年八月一六日1454信濃の駒牽あり、335
後花園康正元年八月一六日1455信濃の駒牽あり、336
後花園長禄元年八月一六日1457信濃の駒牽あり、337
後花園長禄元年一〇月二五日1457諏訪社祝某、山科言国家に、装束を注文す、337
後花園長禄二年1458僧有通、戸隠山顕光寺流記を編述すの条、(追加)338
後花園長禄三年九月九日1459信濃の駒牽、延引し、是日、行はる、339
後土御門寛正六年八月1465遺明正使山城建仁寺禅居庵塔主清啓、(天与)、仁保弘有の請に応じて、その画像に賛す、339
後土御門文正元年一〇月一日1466信濃の駒牽、延引し、是日、行はる、341
後土御門応仁元年八月二二日1467信濃勢、三河岡崎城を攻めんとし、松平親忠等のために敗る、341
後土御門文明四年四月二日1472山城本願寺兼寿、(蓮如)、上野草津湯治の途次、水内郡西巌寺に到る、342
後土御門文明九年一月二三日1477後土御門天皇、甘露寺親長を召し、善光寺縁起絵詞を読ましむの条、(追加)342
後土御門文明九年四月一二日1477甲斐の兵、佐久郡に攻入り、同郡相木中衆のために敗る、343
後土御門文明九年一〇月三日1477幕府、山科家領水内郡市村・高田等五箇庄及び安曇郡住吉庄の違乱を停め、山科言国をして之を安堵せしむ、343
後土御門文明九年一〇月二八日1477信濃守護小笠原政秀、山科言国に太刀を贈る、345
後土御門文明九年一一月四日1477山科言国、一宮入道に、同家領水内郡市村・高田等五箇庄及び安曇郡住吉庄代官職を預く、345
後土御門文明一〇年三月五日1478高梨政盛、蜷川親元に物を贈るの条、(追加)346
後土御門文明一〇年七月七日1478伊那郡文永寺宗詢、菩提心義を同郡密乗院に書写す、347
後土御門文明一二年一一月一五日1479山科言国、同家領中不知行の庄名を注し、伝奏に呈す、その中に安曇郡住吉庄・水内郡五箇庄あり、347
後土御門長享元年七月二七日1487将軍足利義尚・近衛政家等、幕府奉行人諏訪貞通の勧進により、諏訪社上社御射山祭法楽和歌を詠進すの条、(追加)348
後土御門長享二年一一月一二日1488信濃等十五箇国をして、采女養料を進めしむ、 信濃采女養料に関する某書留案349
後土御門延徳元年一一月六日1489伊那郡文永寺に於いて、天竜橋の橋供養を行ふの条、(追加)350
後土御門延徳二年一〇月一五日1490小笠原家長、卒すの条、(追加)351
後土御門延徳三年六月二六日1481将軍足利義材、(義稙)、山城石清水八幡宮に、更級郡小谷庄等同宮領の段銭以下臨時課役を免除す、351
後土御門明応元年一一月1492信濃の僧建仁寺禅居庵の徒清勤、(古川)、遺明正使に随伴して入明せんとす、同寺霊泉院塔主竜崇常庵、等、詩を作りて之に餞すの条、(追加)352
後土御門明応二年1493是より先、伊那郡定継寺前住持清勤、古川、日向梅浜沖に溺死す、是日、山城大徳寺僧宗煕、春浦、その津送仏事を修す、353
後土御門明応四年1495伊那郡文永寺僧宗詞、信濃に下向せんとし、三条西実隆を訪ふの条、(追加)355
後土御門明応六年1497懸召除目、信濃介・同大目を任ず、355
後土御門明応六年1497伊那郡文永寺仙耀の侍童、神寿、上洛す、尋いで、山城醍醐寺に於いて得度す、356
後土御門明応六年1497伊那郡文永寺僧宗詞、同郡園原山の木賊・葛台を、権大納言三条西実隆に贈る、356
後土御門明応九年1500佐久郡竜雲寺住持祥貞、天英、その徒如麟に仏祖正伝菩薩戒作法を伝授すの条、 祥貞、天英、その徒如麟瑞翁、に出家略作法文を伝授す、357
後土御門明応九年1500相摸建長寺西来院塔主英璵、玉隠、寿井清淵、の請に応じて、その師信濃の僧相摸長寿寺住持祖歓喜江、の頂相に賛す、358
後柏原文亀二年1502連歌師飯尾宗祇、宗長と供に信濃路を経て、上野草津に到るの条、(追加)358
後柏原文亀二年三月二一日1502伊那郡文永寺僧宗詞、山城東寺執事頭となるの条、(追加)358
後柏原永正二年一月1505某為清、伊那郡飯島田切村明神に、鰐口を寄進す、359
後柏原永正二年四月二五日1505京都北野社経堂前に於いて、善光寺鰐口の鋳造あり、359
後奈良永正六年五月四日1509伊那郡文永寺僧宗詞、寂す、山城醍醐寺五智院宗典、信濃に下向すの条、(追加)360
後奈良永正六年七月二八日1509高梨政盛等、長尾為景に応じて、越後妻有庄に上杉憲房の軍を破る、憲房の父可諄、顕定、信濃衆を水内郡尾崎庄に敗退せしむの条、(追加)360
後奈良永正一〇年八月一六日1510前左大臣近衛尚通、徳大寺実淳より諏訪大明神絵を贈らる、361
後奈良永正一三年一二月四日1513山城本願寺光兼、実如、筑摩郡正行寺了解所持の阿弥陀如来画像に裏書を加ふ、362
後奈良永正一七年一〇月一〇日1517伊勢皇太神宮仮殿上棟、この造営に木曽の材木を用ふ、362
後奈良大永二年三月一日1522上水内郡長谷寺の石造五輪塔、成る、363
後奈良大永三年正月一一日1523伊那郡文永寺仙耀の弟子賢賀、三条西実隆を訪ふ、363
後奈良大永三年六月五日1523高井郡の僧暁雲、三条西実隆を訪ふ、364
後奈良大永三年一一月二九日1523僧道悦、信濃より上洛し、三条西実隆を訪ふ、364
後奈良大永四年九月一四日1524僧道芬、信濃善光寺より上洛し、三条西実隆を訪ふ、
醍醐寺理性院厳助の社弟、善光寺に参詣す、
365
後奈良大永五年七月二四日1525幕府奉行人飯尾貞連、三条西実隆を訪ひ、諏訪法楽詠草のことを問ふ、366
後奈良大永七年1527信濃の僧行心、伊那郡に法華経を埋納す、366
後奈良享禄三年八月二三日1530山城山科の僧教念、更級郡康楽寺に於いて、源空法然、図像を表補し、越後本覚寺の浄念、之を同寺に寄進す、367
後奈良天文三年正月1534安曇郡松尾寺本堂の修理、成る、369
後奈良天文五年四月二三日1536是より先、長尾為景、上条定兼の党宇佐美四郎右衛門尉と、越後三分一原に戦ひ、之を破る、是日、為景の将高梨政盛、山村藤三郎の戦功を賞す、369
後奈良天文五年閏一〇月六日1536摂津本願寺光教、証如、更級郡康楽寺を介し信濃門徒等に金子を寄進せしむ、尋いで、康楽寺以下諸寺、之を贈る、
光教、証如、商人与次郎を越後・信濃に遣はし馬を求めんとす、
370
後奈良天文五年一二月二二日1536埴科郡雨宮の了願、摂津本願寺に金子寄進を約す、372
後奈良天文六年二月一七日1537高梨政頼、従四位下に叙せらる、372
後奈良天文六年三月一日1537木曽義勝、原蔵人佐に、木曽田立村の地を宛行ふ、373
後奈良天文八年二月二七日1539信濃に居住せる下総常敬寺某の子兵部卿、同寺の頽発せるを摂津本願寺光教証如、に訴ふ、374
後奈良天文八年四月三日1539落合八郎、上野草津湯治の路次案内を信濃の門徒に申付けられんことを、比叡山の徒従順光坊を介して、摂津本願寺光教証如、に請ふ、374
後奈良天文九年五月1540武田信虎、佐久郡に攻入り、諸城を陥るの条、(追加)375
後奈良天文九年九月二三日1540摂津本願寺光教、証如、水内郡島津某に物を贈る、376
後奈良天文一〇年五月一四日1541武田信虎、海野棟綱を破る、棟綱等、上野に逃れ、祢津元直・矢沢綱頼等降るの条、(追加)376
後奈良天文一二年九月一九日1542武田晴信、大井貞隆を小県郡長窪に攻めて之を擒るの条、(追加)377
後奈良天文一三年六月一一日1543武田晴信、小林五郎左衛門等に、佐久郡岩村田に於いて、替地を給す、378
後奈良天文一五年八月二〇日1546埴科郡本誓寺某等、摂津本願寺卅日の番衆に定めらる、378
後奈良天文一六年八月一一日1547武田晴信、佐久郡志賀城を攻めて之を陥る、城将笠原清繁父子及び援軍上野菅原城主高田憲頼等敗死すの条、(追加)379
後奈良天文一七年二月一四日1548武田晴信、村上義清と小県郡上田原に戦ひて敗る、晴信、傷き、板垣信方等武将、多く討死すの条、(追加)380
後奈良天文一七年七月一九日1548諏訪郡西方衆矢島・花岡等、小笠原長時に通ず、仍りて晴信、諏訪郡に出陣し、長時と筑摩郡塩尻峠に戦ひて之を破るの条、(追加)381
後奈良天文一七年八月一七日1548佐久郡依田春賢、紀伊高野山蓮華定院に音信を通ずの条、(追加)381
後奈良天文一七年九月一一日1548武田晴信、諏訪を発して佐久郡に入り、前山城を陥るの条、(追加)382
後奈良天文一九年九月九日1550武田晴信、村上義清を小県郡戸石城に攻めて敗績す、尋いで、晴信、兵を諏訪に班すの条、(追加)382
後奈良天文二〇年七月二一日1551更級郡布施郷の僧秀弘、山城上醍醐寂静院谷内に浄光坊を開き、置目を定むの条、(追加)383
後奈良天文二一年一二月一二日1552諏訪郡の政誉、宥誉に付法す、
宥誉、祐舜・深瑜より伝法潅頂密印信等を受く、
384
後奈良天文二二年閏正月二七日1553高井郡高梨政頼等、摂津本願寺光教証如、を訪ふ、388
後奈良天文二二年一二月二〇日1553武田晴信、伊那郡下条頼康をして、同郡知久平の地を知行せしむ、389
後奈良天文二三年一一月一九日1554跡部勝忠、伊那郡の上祝某をして神田を安堵せしむ、390
後奈良弘治元年七月一九日1555長尾景虎、武田晴信を討たんとして、善光寺に兵を進め、両軍、更級郡川中島に戦ふの条、(追加)390
後奈良弘治元年八月二日1555伊那郡興禅寺住持宗瑠南豊、の母、名闕く、卒す、391
後奈良弘治三年二月一二日1557武田晴信、原左京亮をして、高井郡山田領民の降服を促さしむ、392
後奈良弘治三年二月一五日1557武田晴信の兵、長尾景虎の属城水内郡葛山城を攻めて、之を陥るの城、(追加)392
後奈良弘治三年二月一七日1557武田晴信、山田左京亮の降服を褒し、本領を安堵せしめ、併せて、高井郡大熊郷の地を宛行ふ、393
後奈良弘治三年二月二一日1557後奈良天皇、伊那郡文永寺再興のことにつき、山城醍醐寺理性院へ仰出さるの条、(追加)
昌良姓闕く、大館晴光に、武田晴信の信濃守補任につき斡旋の労を謝す、
394
後奈良弘治三年二月二五日1557武田晴信、木嶋出雲守等の、長尾景虎の兵の高井郡中野に移れるを報ぜしに答へ、同人等をして、城堅固に守らしむ、395
後奈良弘治三年三月一二日1557山城妙心寺、その開山慧玄関山、の二百年忌を追修す、後奈良天皇、影前に受衣して本有円成国師の号を諡し、同寺住持禅愉、亀年、拈香仏事を勤すの条、(追加)395
後奈良弘治三年三月二六日1557武田晴信、伊藤右京亮に、高井郡間山郷の地を宛行ふ、396
後奈良永禄二年四月一三日1559武田晴信、島津月下斎の、水内郡鳥屋城に番勢を入れ、同郡鬼無里を衝かんとすの報あるに依り、長坂虎房等をして、その実否を糺さしむ、397
正親町永禄二年二月二〇日1559是より先、将軍足利義耀、長尾景虎及び武田晴信に諭して、和睦せしめんとす、是日、義輝、景虎の之に同意せるを嘉す、
(永禄元・二・二〇より移す、)
397
正親町永禄二年八月二日1559諏訪社上社神長守矢信真、従五位下に叙せらるの条、(追加)398
正親町永禄二年一一月二〇日1559某、諏訪佐渡守等をして、堰の普請を勤めしむ、398
正親町永禄二年一一月二八日1559是より先、将軍足利義輝、武田晴信の越後及び信濃を侵すを責め、晴信をして、長尾景虎と信濃・越後を分ちて和睦すべきを命ず、是日、晴信、之を承諾し、併せて非違なきことを弁疏すの条、(追加)399