長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」補遺編-上(400頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
正親町永禄三年一二月一三日1560秋山善右衛門、伊那郡赤須昌為と草刈場のことにつき契約すの条、
武田晴信の秋山善右衛門宛の書状
400
正親町永禄三年一二月1560佐久郡相木常喜、同郡常源寺・新海明神社等に、所領を寄進すの条、(追加)400
正親町永禄三年六月一三日1560木曽長政、御岳権現に百箇日精進を行ひ、是日、成就すの条、
木曽政家等の書状等
401
正親町永禄四年九月二三日1561武田信玄、内田監物の、埴科郡海津に在城するに依り、監物知行所諏訪郡北大塩住民の普請役を免除せしむ、403
正親町永禄四年1561水内郡大安寺正宥、舜嶺、月両箇石蛇問答切紙を同寺正盛安室、に授く、404
正親町永禄四年三月九日1561武田信玄、三枝守友の信濃在国の功を賞し、諏訪郡土田・筑摩郡洗馬の地を宛行ふ、
信玄、三枝守友に小県郡長窪の地等を加恩す、
404
正親町永禄四年閏三月四日1561木曽義康、千村新十郎をして、木曽宮之腰の津領を扶持せしむ、405
正親町永禄四年八月二九日1561上杉政虎、景虎、信濃に出陣せんとし、後事を長尾政景に依頼すの条、(追加)406
正親町永禄四年九月一〇日1561上杉政虎、武田信玄の軍と更級郡川中島に戦ふの条、(追加)407
正親町永禄四年一二月二五日1561武田信玄、上野貫前社に禁制を掲げ、甲斐・信濃の軍勢の乱妨狼藉を停止せしむ、410
正親町永禄四年1561水内郡戸隠山中院某、修験問答を著はすの条、(追加)410
正親町永禄五年四月一七日1562武田信玄、高井郡仁礼衆に知行を宛行ひ、戦功を励ましむ、413
正親町永禄五年一〇月二九日1562武田信玄、遠山三郎兵衛入道に書を送り、昨秋伊那郡大島越に際し面談叶はざりしを遺憾とし、併せて、北条氏康赴援のため、関東に出陣せんとするを報ず、413
正親町永禄六年一一月三日1563武田信玄、高井郡原左京亮・伊藤右京亮をして、被官地下人等を集め、地を開かしむ、414
正親町永禄六年一二月二日1563武田信玄、油科内匠に明春高井郡高梨を入手の上、兼約の地を宛行ふべきを約す、415
正親町永禄六年一二月二二日1563是より先、武田信玄、多田昌澄をして、埴科郡虚空蔵山城を守らしむ、是月、昌澄、卒す、416
正親町永禄六年一二月二四日1563武田信玄、上野一宮造営用材を伊那郡より運ばんとし、分国中諸役所に命じて、之を勘過せしむ、416
正親町永禄七年正月二二日1564武田信玄、信濃諸役所をして、梶山与三次郎の荷物を勘過せしむ、417
正親町永禄七年三月一八日1564武田信玄の兵、水内郡野尻城を陥る、上杉輝虎の兵、同城を奪回すの条、(追加)418
正親町永禄七年六月六日1564上野館林城主長尾景長、上杉輝虎の将河田豊前守に書を送り、上野の戦況を報じ、併せて輝虎の信濃進発の首尾好きを賀す、419
正親町永禄七年六月一四日1564上杉輝虎、信濃出兵を諸将に触る、上野倉賀野直行、之に応へ、北条氏康の進攻に備ふべきを約すの条、(追加)420
正親町永禄七年九月三日1564今川氏真、上杉輝虎の将柿崎景家等に書を送り、輝虎の信濃出陣を賀し、輝虎への取成を依頼す、420
正親町永禄七年一〇月二五日1564武田信玄、上杉輝虎の兵の上野沼田に移るとの報により、小諸城将小山田昌行等をして、佐久郡同心衆等を集め、城の警戒を厳にせしむの条、(追加)421
正親町永禄七年一二月一九日1564武田信玄、伊藤右京亮に、本領の替地として、高井郡片塩の地を宛行ふ、422
正親町永禄八年正月1565木曽定勝寺、山城東福寺開山円爾三百年忌の料足を奉加す、422
正親町永禄八年三月一四日1565武田信玄、赤見綱泰をして、同人被官等の信濃に徘徊する者を召還さしむ、425
正親町永禄八年六月二五日1565武田信玄、信濃より上野に入り、同国倉賀野城を陥れ、更に長野業成を同国箕輪城に攻めんとす、上杉輝虎、小泉城主富岡重朝をして、業成を援けしめ、自らも信濃に出陣して、信玄を牽制せんとすの条、
武田信玄、上野倉賀野在城の大熊尊秀に、真田昌幸等を赴援せしむ、
425
正親町永禄九年三月一〇日1566足利義秋、義昭、大覚寺門跡義俊を上杉輝虎の許に遣はし、北条氏康と和して上洛すべき旨を伝へしめ、水内郡の人泉弥七郎をして、之を促さしむの条、(追加)427
正親町永禄九年九月二日1566武田信玄、山田飛騨守・同右衛門尉に、高井郡大熊郷の替地をして、同郡壁田郷等の地を宛行ふ、428
正親町永禄九年一〇月二八日1566武田信玄の将春日虎綱、高井郡山田左京亮に令し、許可なく同人知行分の山にて材木を伐採するを禁止せしむ、
春日虎綱、原昌胤をして、須田某と山田左京亮との知行の相論を沙汰せしむ、
429
正親町永禄一〇年二月九日1567小県郡定津院の石造宝篋印塔、成る、
定津院の石造宝篋印塔、成る、
430
正親町永禄一〇年二月二四日1567足利義秋、義昭、上杉輝虎に書を送り、武田・北条二氏と和し、上洛して義秋を授けんことを請ふの条、(追加)431
正親町永禄一〇年五月六日1567武田信玄、佐久郡竜雲寺をして、上野長純寺を支配せしむの条、(追加)432
正親町永禄一〇年五月八日1567武田信玄、海野中務少輔の、信玄に属し、戦功を顕はすを褒す、432
正親町永禄一〇年九月二日1567武田信玄、伊藤右京亮に、高井郡井上の内坂田郷の地を宛行ふ、433
正親町永禄一〇年一二月二七日1567武田信玄、諏訪左衛門等に、明年筑摩郡信府近辺の地を、宛行ふべきを約す、434
正親町永禄一〇年1567武田信玄、小県郡金井半兵衛に、知行分目録を付す、434
正親町永禄一一年三月五日1568武田信玄、工藤源左衛門尉をして、筑摩郡深志城普請の人足を催促せしむの条、
武田信玄、工藤源左衛門尉をして、筑摩郡南栗林の地を新田宮内少輔に渡さしむ、
436
正親町永禄一一年四月五日1568武田信玄、赤見七郎右衛門尉に、小県郡五十郷内の地を宛行ふの条、(追加)437
正親町永禄一一年五月一七日1568武田信玄、信濃の工人祢津宮内丞等の細工の奉公を賞し、甲府町次の普請役を免ずの条、(追加)437
正親町永禄一一年六月一二日1568武田信玄、赤見綱泰に、その被官人を返還す、438
正親町永禄一一年八月1568山城相国寺鹿苑院主集尭、仁如、同寺滋照院の徒周瀑廬英、の請に応じ、周瀑の師同国真如寺前住持瑞延祐谷、の頂相に賛語を加ふ、439
正親町永禄一一年九月一六日1568武田信玄、高井郡の山田飛騨守知行地に於いて、狼藉を停止す、441
正親町永禄一一年一〇月一日1568小笠原長時、越後に奔り上杉輝虎に頼るの条、(追加)442
正親町永禄一一年一一月一七日1568武田信玄、市川信房に、先約に依り高井郡の地を宛行ふ、442
正親町永禄一一年一二月一二日1568武田信玄、徳川家康と共に、今川氏真を駿河に攻む、依田信守・信蕃父子等、信玄に属して、駿河薩〓山に戦ふの条、(追加)443
正親町永禄一二年二月八日1569将軍足利義昭、智光院頼慶を上杉輝虎の許に遣はし、織田信長と相談して、武田信玄と睦を図るべきを勧む、444
正親町永禄一二年三月三日1569北条氏康、上杉輝虎に書を送り、水内郡飯山口に出陣し、武田信玄を牽制せんことを求むの条、(追加)444
正親町永禄一二年四月七日1569将軍足利義昭、甲越の和睦を勧め、上杉輝虎に命じて信濃出陣を停め、信玄と和せしめんとすの条、(追加)445
正親町永禄一二年六月一二日1569武田信玄、三枝守友に筑摩郡塩尻郷の代官を命ず、446
正親町永禄一二年六月一六日1569武田信玄、甲斐・信濃の兵を率ゐて、駿河古沢に迫る、北条氏康、同氏政父子、上杉輝虎に信濃出兵を求むの条、(追加)446
正親町永禄一二年七月二日1569上杉輝虎、信濃の人村上国清を、河上冨信等の許に遣はし、江馬輝盛への取成の労を謝す、447
正親町永禄一二年七月四日1569太田道誉、三楽斎、上杉輝虎の将河田重親に、信濃衆の向背を問ふ、448
正親町永禄一二年七月一七日1569上杉輝虎の将村上義清、若林采女を義濃の織田信長の許に遣はさんとし、路次往還のことを河土式部丞に依頼す、448
正親町永禄一二年一一月一八日1569武田信玄、水内郡葛山衆に令し、還住地下人に、三年間普請役を免ぜしむ、449
正親町元亀元年二月一八日1570北条氏康・同氏政、起請文を上杉輝虎に送りて盟約を誓ひ、兵を信濃または西上野に出して、武田信玄の勢を牽制せんことを求むの条、(追加)450
正親町元亀元年三月四日1570武田信玄、筑摩郡深志在城衆をして、祢津紀伊守子息等の人質を返さしむの条、
武田信玄、香坂弾正忠をして、香坂図書助の人質を預らしむ、
450
正親町元亀元年四月三日1570武田信玄、和田兵衛大夫の味方に参ぜざる不実を責め、信玄の将春日虎綱等と信濃・上野境に於いて談合すべきを命ず、451
正親町元亀元年七月六日1570武田信玄、市川昌房に、諏訪郡高島在城料として、同郡真志野郷等の地を宛行ふ、452
正親町元亀元年八月1570奥村土佐守、佐久郡那智山大権現に、鰐口を寄進す、453
正親町元亀元年一〇月二四日1570是より先、上杉輝虎、武田信玄の上野に出づるを聞き出陣す、信玄、退く、是日、輝虎、協力して信玄を撃たんことを、北条氏政に申入る、453
正親町元亀二年四月一五日1571武田信玄、水内郡桜遠江守の忠節を賞し、越後頚城郡の地を宛行はんとす、尋いで、水内郡桜郷山手を安堵せしむ、454
正親町元亀三年三月六日1572武田信玄、真田一徳斎幸隆、の上野白井城を攻略せるを嘉し、同国箕輪城に在番して春日虎綱に協力すべきを命ずの条、(追加)456
正親町元亀三年五月三日1572武田信玄、小村与兵衛尉に、依田又左衛門に被官を預け、軍役を加増す、武藤昌幸真田昌幸、之を奉ず、457
正親町元亀三年九月一八日1572武田信玄の信濃より越後に攻入らんとすとの風聞あるに依り、上杉謙信、長尾顕景・山吉豊守等に命じ、春日山城の警備を厳にせしむの条、(追加)458
正親町元亀三年九月二六日1572武田信玄、遠藤胤勝に、信濃に於いて知行を宛行ふの条、
武田信玄、古畑孫兵衛尉の服属を賞し、
458
正親町元亀三年九月二八日1572武田信玄、伊那郡文永寺に同郡南原の地を寄進し、且つ同寺宗然をして、甲府に文永寺建立し、武運長久を祈らしめんとすの条、(追加)459
正親町元亀三年一〇月一日1572武田信玄、同勝頼、信濃より越後に攻入らんとするも、上杉輝虎の徹兵及び信玄の疾により、兵を収めしことを、越中勝興寺に報ず、460
正親町元亀三年一〇月1572武田信玄の将秋山信友、伊那の軍勢を率ゐて、義濃岩村城を陥る、信玄、下条信氏をして、同城を守らしむの条、(追加)461
正親町天正元年正月五日1573木曽義昌、武田信玄の、遠江三方原に徳川家康の軍を破りしを賀す、462
正親町天正元年正月一五日1573筑摩郡千鹿頭大明神前家、焼く、463
正親町天正元年二月四日1573武田信玄、三河野田城を攻め、城将菅沼定盈を生捕る、徳川家康、同城を撃たんとして、上杉謙信に信濃出兵を促すの条、(追加)463
正親町天正元年四月一二日1573武田信玄、三河軍中に病み、信濃に兵を収めんとし、伊那郡駒場に卒すの条、(追加)464
正親町天正元年七月二三日1573北条氏政、陸奥芦名盛氏に書を送り、上杉謙信・織田信長の甲斐・相摸出兵に備へ、武田勝頼の、甲・信両国の兵を、駿河境に配備せるを伝ふ、467
正親町天正元年一二月一四日1573武田勝頼、内貴少弐をして、同人遺跡の処分を自由にせしむ、468
正親町天正二年四月一四日1574織田信長、武田勝頼を攻略のため、甲・信表に赴かんとする旨を某に伝ふ、469
正親町天正二年五月一九日1574小県郡真田一徳斎、幸隆、卒すの条、(追加)469
正親町天正二年六月二九日1574織田信長、上杉謙信に書を送り、今秋を期して信濃・甲斐に攻入り、武田勝頼を撃たんことを約すの条、(追加)471
正親町天正二年七月二一日1574上杉謙信、高梨又五郎をして、高井郡内の所領を安堵せしむ(訂正)472
正親町天正二年九月八日1574是より先、真田信綱、武田勝頼に三河長篠へ援兵を求む、是日、勝頼、之に答へ、遠江在陣の兵を長篠へ出勢せしめしを報ず、472
正親町天正二年九月一六日1574諏訪社上社坊宥盛、紀伊高野山一心院に於いて、大阿闍梨快音より伝法潅頂を受く、472
正親町天正二年一二月二日1574武田勝頼、信濃の人大井民部助等三河作手城番に、援軍を送れるを報じ、併せて城の用心をを堅固にせしむ、479
正親町天正三年四月二四日1575上杉謙信、更級郡八幡宮に願文を捧げ、北条氏政討伐の成就を祈る、480
正親町天正三年五月二一日1575武田勝頼、甲斐・信濃の兵を率ゐて三河に入り、徳川家康の将奥平信昌を同国長篠城に囲み、織田信長・徳川家康等と戦ひて敗るの条、(追加)481
正親町天正三年六月一六日1575上杉謙信、高井郡市川の備堅固となれるに依り、栗林次郎左衛門をして、越後上田に帰り休養せしむ、482
正親町天正三年九月二日1575是より先、義濃苗木城主遠山友政、織田信長に属して、伊那郡知久頼氏等を誘ふ、仍りて、武田勝頼、頼氏等を討たんとす、是日、勝頼、天野安芸守斡旋により之を許す、483
正親町天正三年九月一二日1575北条氏政、武田勝頼の兵を信濃・遠江の境に破りしを、風間出羽守に報ず、484
正親町天正三年九月二一日1575武田勝頼、真田昌幸を奥山大膳亮の許に遣はし、その忠功を褒す、484
正親町天正三年一一月二一日1575織田信長、武田勝頼の甲斐・信濃等の軍勢を三河長篠に破りし旨を、佐竹茂重等に報ず、485
正親町天正四年二月一九日1576佐久郡小諸城将武田信豊、望月遠江入道の請に依り、その牌所の地を甲斐洞雲寺に寄進す、486
正親町天正四年三月二三日1576相摸大磯の揚谷寺左京、仏土義案立を小県郡真田理智院に書写す、487
正親町天正四年三月二七日1576武田勝頼、上野箕輪在城の瀬戸神十郎に、小県郡海野の地を宛行ふ、487
正親町天正四年三月1576木曽定勝寺住持宗球、天心、同寺観音懺法本尊を修補すの条、
宗球、天心、大般若経巻を修補す、
488
正親町天正四年九月五日1576正親町天皇、高井郡興国寺開山順京高山、に、大光智照禅師の号を特賜せらる、488
正親町天正四年一〇月一七日1576武田勝頼、信濃の人栗田鶴寿等をして、遠江高天神城の守備を堅固にせしむ、489
正親町天正五年六月二一日1577武田勝頼、下曽根岳雲軒賢範、をして、信濃より上野宇津木に到る表子を勘過せしめ、また、同国松井田に到る外郎紐子の関役を免除せしむ、490
正親町天正五年七月二日1577諏訪社上社上坊宥盛、空鑁より伝法せらる、490
正親町天正五年閏七月一一日1577武田勝頼、徳川家康の遠江高天神城を攻めんとするに依り、某に命じて諏訪郡参陣を停め、甲府に着陣せしむ、491
正親町天正六年二月一二日1578武田勝頼、信濃の諸郷をして、諏訪社造営を勤仕すの条、(追加)492
正親町天正六年二月二〇日1578諏訪社上社祢宜大夫、諏訪頼豊に、伊那郡宮所の同社前宮宝殿造営料を怠納すること等を訴ふ、493
正親町天正六年四月二〇日1578水内郡大安寺正宥、舜嶺、大魔境の切紙を同寺の徒正盛安室、に授く、494
正親町天正六年五月一五日1578上杉景勝、同景虎を越後御館城に攻む、村上国清、景勝に属し、越後大場口に戦ふ、495
正親町天正六年五月二二日1578上杉景虎の兵、同景勝を越後春日山城に攻む、島津喜七郎等、同城に篭城して、景虎の兵を却くの条、(追加)495
正親町天正六年五月二七日1578小森沢政秀、上杉景虎の党を、水内郡飯山に攻めて戦功を顕はすの条、(追加)496
正親町天正六年五月二九日1578武田勝頼、上杉景虎を援けんとし、武田信豊を信越国境に遣はすの条、(追加)497
正親町天正六年七月八日1578島津喜七郎等、上杉景勝に属し、同景虎の兵と〓越後大場口に戦ふ、景勝、喜七郎等の戦功を賞すの条、(追加)498
正親町天正六年七月一六日1578武田勝頼、上杉景勝と信濃・越後境役所のこと等を約定す、499