長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」補遺編-下 (1頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後陽成慶長元年二月一六日1596伊那郡高遠城代岩崎重次、伊那郡建福寺をして、同寺領を安堵せしむの条、(追加)1
後陽成慶長元年五月一一日1596山城北野社梅順房能閑、仙石秀康秀久、に物を贈る、この後両者しばしば往来す、2
後陽成慶長元年1596伊那郡御師春木種光、石川康正の子息等の檀那職を、上部二郎右衛門尉に譲与す、 伊勢豊受大神宮御師榎倉武棟、小笠原氏等の檀那職を譲る、3
後陽成慶長元年一二月二四日1596仙石秀康秀久、の室、野々村氏、卒す、6
後陽成慶長二年五月七日1597矢沢綱頼、頼幸、卒す、7
後陽成慶長二年五月一二日1597仙石秀康、秀久、前田玄以の聚楽第に移徙するを訪ふ、8
後陽成慶長二年六月一五日1597豊臣秀吉、甲斐善光寺如来を、京都方広寺大仏殿に遷さんとし、諸大名に、路次送迎を命ずの条、(追加)10
後陽成慶長二年七月二六日1597仙石盛長、秀康、改名及び改判に際し、山城北野社に祝儀を贈る、 本年八月中、盛長、秀久、山城北野社と音信す、11
後陽成慶長二年八月二七日1597曹洞宗了庵門徒、佐久郡竜雲寺に宗規を頒つの条、(追加)12
後陽成慶長二年八月二八日1597仙石盛長、秀久、福島正則と共に豊臣秀吉に謁す、13
後陽成慶長二年九月一〇日1597須田満親、小笠原式部少輔をして、埴科郡八幡社社領を安堵せしむの条、 徳川家康の将酒井忠勝の須田満親宛書状14
後陽成慶長二年一〇月六日1597是より先、豊臣秀吉、下野宇都宮国綱の私曲を罰せんとするも、国綱、知行返上を申出づるに依り赦さる、是日、真田昌幸・浅野長政、奉行人として宇都宮給人衆に年貢のことを指示す、15
後陽成慶長二年一〇月八日1597真田昌幸、河原右京助に、本領の地を還付す、16
後陽成慶長二年一〇月一七日1597仙石盛長、秀久、聚楽第の御門の普請成れるを豊臣秀吉に報ぜんがため、京都より山城伏見に赴く、16
後陽成慶長二年一二月二四日1597仙石盛長、秀久、武者又左衛門に、知行を加給す、18
後陽成慶長三年正月五日1598山城北野社梅順房能閑、仙石盛長秀久、に巻数等を贈る、19
後陽成慶長三年正月一〇日1598豊臣秀吉、上杉是勝を陸奥会津に封ず、信濃出身の将士、多く之に随伴すの条、 直江津兼続の築地修理等宛書状20
後陽成慶長三年二月三日1598仙石盛長、秀久、佐久郡貞祥寺竜鶴松山、に、隠居免として寺領を加付す、21
後陽成慶長三年二月一七日1598是より先、信濃の人小田切豊前守、上杉景勝の家臣平林正恒に書を送り、知行地越後津川のことにつき直江兼続に訴ふ、是日、兼続、領知相違あるべからざる旨を答ふ、22
後陽成慶長三年三月七日1598徳川家康の老臣本多正信、直江兼続の、上杉景勝の使者平林正恒の無事帰国を家康に報ぜしに答ふ、23
後陽成慶長三年四月一日1598是より先、豊臣秀吉、関一政を川中島に移す、是日、一政、水内郡妙証寺及び浄興寺をして、寺領を安堵せしむ条、 関一政、水内郡勝願寺をして、山屋敷を安堵せしむ、24
後陽成慶長三年四月一五日1598豊臣秀吉、山城伏見より上洛するに依り、仙石盛長、秀久、之に供奉す、尋いで、秀吉、伏見に帰り、盛長秀久、また供奉す、 本年中の盛長秀久、の伏見・京都に於ける動静24
後陽成慶長三年八月一七日1598是より先、豊臣秀吉、甲斐善光寺如来を京都に移せるも、霊夢に依り、是日、之を信濃善光寺に送るの条、(追加)28
後陽成慶長三年1598是より先、豊臣秀吉、佐久間安政・同勝之を、それぞれ更級郡牧之島・水内郡長沼城に封ぜんとす、是月、秀吉薨ずるに依り、事罷む、29
後陽成慶長三年一一月八日1598仙石盛長、秀久、京都を発し、佐久郡小諸城に帰る、30
後陽成慶長三年一一月二五日1598徳川家康の家臣大久保長安、木曽妻篭宿問屋をして、伊那郡よりの馬荷を逓送せしむ、31
後陽成慶長三年一二月二六日1598豊臣氏五奉行、河内・和泉蔵入米の請払算用状を小西幸長に渡す、この内に真田昌幸への大坂に参るに依り下さるる分あり、32
後陽成慶長四年三月一日1599仙石盛長、秀康、秀久、佐久郡安養寺及び竜雲寺に寺領を寄進すの条、 仙石盛長、秀久、領内に佐久郡小諸城中の植木を需むるも、同郡安養寺には之を免ず、33
後陽成慶長四年四月六日1599仙石盛長、秀久、上洛す、34
後陽成慶長四年六月六日1599徳川秀忠、仙石秀康、秀久、の巣鷂を贈れるに答謝す、35
後陽成慶長四年九月七日1599伊那郡文永寺僧宗然、五字功能を書写すの条、 宗然、紀伊高野山引導院の物を賜れるを謝す、36
後陽成慶長四年一〇月一三日1599上杉景勝、信濃の人岩井信能等をして、国堺の警備を固めしむ、 徳川秀忠、岩井信能等に、留守中を托す、37
後陽成慶長四年一二月二九日1599是より先、伊那郡野池の新左衛門、同郡五右衛門と宮沢の宮の花のことにつき争ふ、是日、十郎左衛門等、五右衛門の依頼に依りこれを仲裁し、その旨を新左衛門に申入る、38
後陽成慶長五年二月一日1600徳川家康、川中島の田丸直昌を美濃に移す、また、森忠政を川中島に移して、更級埴科・高井・水内四郡の地を与ふの条、(追加)39
後陽成慶長五年二月二日1600上杉景勝、信濃の人岩井信能等をして、国堺の警備並びに普請を厳ならしむ、42
後陽成慶長五年五月八日1600徳川家康、仙石盛長秀久、をして、佐久郡小諸城に帰り、北国筋鎮撫に当らしむの条、(追加)43
後陽成慶長五年六月二六日1600日根野高吉、諏訪郡高島城に卒すの条、(追加)44
後陽成慶長五年1600善光寺御堂、成る、また木曽の桟及び伊奈河橋、成るの条、(追加)44
後陽成慶長五年七月七日1600徳川家康、信濃の人屋代秀正、勝永、を前田利長・堀秀治等に遺はし、軍令を伝へしむ、45
後陽成慶長五年七月一九日1600徳川秀忠、江戸を発して陸奥に出陣す、小笠原信之、その先陣に加はるの条、(追加)47
後陽成慶長五年七月二六日1600徳川家康、伊那郡飯田の京極高知に軍陣のことを命ず、家康、近江大津の京極高次に之を報じ、高次を上洛せしむの条、(追加) 家康、京極高知の音信に答ふ、50
後陽成慶長五年八月三日1600仙石秀康、秀久、関東に出陣するも、徳川家康の命により、佐久郡小諸城に帰り、真田昌幸に備ふの条、(追加)51
後陽成慶長五年八月一三日1600徳川家康、山村良勝・千村良重をして、美濃境の情況を探らしむ、53
後陽成慶長五年八月二〇日1600伊那郡飯田の京極高知、徳川家康に属し、三河に攻入らんとす、家康、高知をして、濃州口に出陣せしむの条、(追加)54
後陽成慶長五年八月二一日1600是より先、徳川家康、信濃等諸国の城に麾下の大名を配し、人質を江戸に送らしむ、是日、本多正純、旨を赤尾津孫次郎に報ず、55
後陽成慶長五年八月二一日1600山村良勝・千村良重、木曽谷平定の由を徳川家康に報ず、家康、その軍功を褒し、遠山友政等を加勢に遣はす旨を告ぐの条、 千村平右衛門等、上田二郎左衛門等をして鉄砲衆を抱へしむ、56
後陽成慶長五年八月二三日1600徳川秀忠、小県郡上田城に真田昌幸を攻めんとして、下野宇都宮を発せんとし、旨を上野沼田城の真田信幸に伝へ、その参陣を促すの条、(追加)58
後陽成慶長五年八月二三日1600徳川家康、山村良勝等をして、美濃の情況を探らしむの条、(削除)58
後陽成慶長五年八月二四日1600徳川家康、浅野長政に、徳川秀忠の、信濃口に出陣せるを告げ、長政をして、之を赴援せしむの条、(追加)59
後陽成慶長五年八月二八日1600徳川秀忠、小県郡上田城に真田昌幸を攻めんとして、軍を下野宇都宮より上野松井田に進む、60
後陽成慶長五年九月二日1600徳川秀忠、山村良勝等をして、木曽谷の警備を厳にせしむの条、(追加)61
後陽成慶長五年九月二日1600徳川秀忠、下野より信濃に入り、佐久郡小諸城に着陣すの条、(追加)61
後陽成慶長五年九月三日1600京極高知、福島正則等と、美濃岐阜城を攻めて之を陥る、家康、高知の功を賞すの条、(追加)64
後陽成慶長五年九月五日1600真田昌幸、態度を変ふるに依り、徳川秀忠、真田昌幸の属城小県郡砥石城を攻めて之を陥れ、真田信幸をして、同城を守らしむの条、(追加)66
後陽成慶長五年九月六日1600徳川秀忠の諸将等、真田昌幸を上田城に攻むの条、(追加)67
後陽成慶長五年九月七日1600是より先、京極高次、徳川家康方に荷担し、居城近江大津に篭城し、京極高知を介し、その旨を家康に報ず、依りて、是日、家康、高次に書を送り急ぎ援軍を送るべきを約す、72
後陽成慶長五年九月一〇日1600真田昌幸、松沢采女等の味方に参ぜしを褒す、74
後陽成慶長五年九月一四日1600徳川家康、三河赤坂より仙石盛長秀康、に戦況を報じ、徳川秀忠に西上を促さしむ、75
後陽成慶長五年九月一六日1600徳川秀忠、美濃に参陣せんとし、小諸を発し、下諏訪を経て木曽に入り、山村良勝の館に泊すの条、(追加)76
後陽成慶長五年九月一八日1600真田昌幸の手勢、森忠政を埴科郡葛尾城に攻む、尋いで、真田信繁等、また、之を攻む、77
後陽成慶長五年1600徳川家康、伊那郡飯田城主京極高知を丹後宮津に移し、下総多胡城主保科正光を、伊那郡高遠の旧領に復す、79
後陽成慶長五年一二月一三日1600徳川家康、真田昌幸を、紀伊高野山に幽閉す、昌幸、同地に赴くの条、(追加)81
後陽成慶長五年1600仙石盛長、秀久、の子政能、兵吉、徳川秀忠の小姓役となる、82
後陽成慶長六年七月二七日1601徳川家康、善光寺に水内郡に於いて寺領を寄進すの条、(追加) 善光寺本願の聖智円坊、同寺造工上葺のため諸所に勧進を致す、83
後陽成慶長六年八月二日1601真田信之、横山久兵衛等に、小県郡上田に於いて知行を与ふ、尋いで、大熊五郎左衛門等に知行を与ふの条、(追加)91
後陽成慶長六年九月三〇日1601伊那郡高遠の保科正直、卒すの条、(追加)92
後陽成慶長六年一一月二二日1601飛騨高山城主金森素玄、長近、徳川家康の命に依り、木曽代官山村道祐良候、に、飛騨白木の川下げにつき、違乱すべからぜる旨を伝ふ、93
後陽成慶長六年1601佐久郡竜雲寺住持大雲、天外、同寺を退き、同郡春日村に康国寺を開創す、94
後陽成慶長七年三月一五日1602仙石秀久、秀康、山城北野社に灯籠を献ず、94
後陽成慶長七年八月一日1602森忠政、高井郡幸高村等領内の村々を検地すの条、(追加)95