長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」補遺編-下 (1頁~)
1頁~
100頁~
200頁~
300頁~
400頁~
500頁~
600頁~
「信濃史料」巻別収録年代に戻る
・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇
年月日
西暦
記事
頁
後陽成
慶長元年二月一六日
1596
伊那郡高遠城代岩崎重次、伊那郡建福寺をして、同寺領を安堵せしむの条、(追加)
1
後陽成
慶長元年五月一一日
1596
山城北野社梅順房能閑、仙石秀康秀久、に物を贈る、この後両者しばしば往来す、
2
後陽成
慶長元年
1596
伊那郡御師春木種光、石川康正の子息等の檀那職を、上部二郎右衛門尉に譲与す、 伊勢豊受大神宮御師榎倉武棟、小笠原氏等の檀那職を譲る、
3
後陽成
慶長元年一二月二四日
1596
仙石秀康秀久、の室、野々村氏、卒す、
6
後陽成
慶長二年五月七日
1597
矢沢綱頼、頼幸、卒す、
7
後陽成
慶長二年五月一二日
1597
仙石秀康、秀久、前田玄以の聚楽第に移徙するを訪ふ、
8
後陽成
慶長二年六月一五日
1597
豊臣秀吉、甲斐善光寺如来を、京都方広寺大仏殿に遷さんとし、諸大名に、路次送迎を命ずの条、(追加)
10
後陽成
慶長二年七月二六日
1597
仙石盛長、秀康、改名及び改判に際し、山城北野社に祝儀を贈る、 本年八月中、盛長、秀久、山城北野社と音信す、
11
後陽成
慶長二年八月二七日
1597
曹洞宗了庵門徒、佐久郡竜雲寺に宗規を頒つの条、(追加)
12
後陽成
慶長二年八月二八日
1597
仙石盛長、秀久、福島正則と共に豊臣秀吉に謁す、
13
後陽成
慶長二年九月一〇日
1597
須田満親、小笠原式部少輔をして、埴科郡八幡社社領を安堵せしむの条、 徳川家康の将酒井忠勝の須田満親宛書状
14
後陽成
慶長二年一〇月六日
1597
是より先、豊臣秀吉、下野宇都宮国綱の私曲を罰せんとするも、国綱、知行返上を申出づるに依り赦さる、是日、真田昌幸・浅野長政、奉行人として宇都宮給人衆に年貢のことを指示す、
15
後陽成
慶長二年一〇月八日
1597
真田昌幸、河原右京助に、本領の地を還付す、
16
後陽成
慶長二年一〇月一七日
1597
仙石盛長、秀久、聚楽第の御門の普請成れるを豊臣秀吉に報ぜんがため、京都より山城伏見に赴く、
16
後陽成
慶長二年一二月二四日
1597
仙石盛長、秀久、武者又左衛門に、知行を加給す、
18
後陽成
慶長三年正月五日
1598
山城北野社梅順房能閑、仙石盛長秀久、に巻数等を贈る、
19
後陽成
慶長三年正月一〇日
1598
豊臣秀吉、上杉是勝を陸奥会津に封ず、信濃出身の将士、多く之に随伴すの条、 直江津兼続の築地修理等宛書状
20
後陽成
慶長三年二月三日
1598
仙石盛長、秀久、佐久郡貞祥寺竜鶴松山、に、隠居免として寺領を加付す、
21
後陽成
慶長三年二月一七日
1598
是より先、信濃の人小田切豊前守、上杉景勝の家臣平林正恒に書を送り、知行地越後津川のことにつき直江兼続に訴ふ、是日、兼続、領知相違あるべからざる旨を答ふ、
22
後陽成
慶長三年三月七日
1598
徳川家康の老臣本多正信、直江兼続の、上杉景勝の使者平林正恒の無事帰国を家康に報ぜしに答ふ、
23
後陽成
慶長三年四月一日
1598
是より先、豊臣秀吉、関一政を川中島に移す、是日、一政、水内郡妙証寺及び浄興寺をして、寺領を安堵せしむ条、 関一政、水内郡勝願寺をして、山屋敷を安堵せしむ、
24
後陽成
慶長三年四月一五日
1598
豊臣秀吉、山城伏見より上洛するに依り、仙石盛長、秀久、之に供奉す、尋いで、秀吉、伏見に帰り、盛長秀久、また供奉す、 本年中の盛長秀久、の伏見・京都に於ける動静
24
後陽成
慶長三年八月一七日
1598
是より先、豊臣秀吉、甲斐善光寺如来を京都に移せるも、霊夢に依り、是日、之を信濃善光寺に送るの条、(追加)
28
後陽成
慶長三年
1598
是より先、豊臣秀吉、佐久間安政・同勝之を、それぞれ更級郡牧之島・水内郡長沼城に封ぜんとす、是月、秀吉薨ずるに依り、事罷む、
29
後陽成
慶長三年一一月八日
1598
仙石盛長、秀久、京都を発し、佐久郡小諸城に帰る、
30
後陽成
慶長三年一一月二五日
1598
徳川家康の家臣大久保長安、木曽妻篭宿問屋をして、伊那郡よりの馬荷を逓送せしむ、
31
後陽成
慶長三年一二月二六日
1598
豊臣氏五奉行、河内・和泉蔵入米の請払算用状を小西幸長に渡す、この内に真田昌幸への大坂に参るに依り下さるる分あり、
32
後陽成
慶長四年三月一日
1599
仙石盛長、秀康、秀久、佐久郡安養寺及び竜雲寺に寺領を寄進すの条、 仙石盛長、秀久、領内に佐久郡小諸城中の植木を需むるも、同郡安養寺には之を免ず、
33
後陽成
慶長四年四月六日
1599
仙石盛長、秀久、上洛す、
34
後陽成
慶長四年六月六日
1599
徳川秀忠、仙石秀康、秀久、の巣鷂を贈れるに答謝す、
35
後陽成
慶長四年九月七日
1599
伊那郡文永寺僧宗然、五字功能を書写すの条、 宗然、紀伊高野山引導院の物を賜れるを謝す、
36
後陽成
慶長四年一〇月一三日
1599
上杉景勝、信濃の人岩井信能等をして、国堺の警備を固めしむ、 徳川秀忠、岩井信能等に、留守中を托す、
37
後陽成
慶長四年一二月二九日
1599
是より先、伊那郡野池の新左衛門、同郡五右衛門と宮沢の宮の花のことにつき争ふ、是日、十郎左衛門等、五右衛門の依頼に依りこれを仲裁し、その旨を新左衛門に申入る、
38
後陽成
慶長五年二月一日
1600
徳川家康、川中島の田丸直昌を美濃に移す、また、森忠政を川中島に移して、更級埴科・高井・水内四郡の地を与ふの条、(追加)
39
後陽成
慶長五年二月二日
1600
上杉景勝、信濃の人岩井信能等をして、国堺の警備並びに普請を厳ならしむ、
42
後陽成
慶長五年五月八日
1600
徳川家康、仙石盛長秀久、をして、佐久郡小諸城に帰り、北国筋鎮撫に当らしむの条、(追加)
43
後陽成
慶長五年六月二六日
1600
日根野高吉、諏訪郡高島城に卒すの条、(追加)
44
後陽成
慶長五年
1600
善光寺御堂、成る、また木曽の桟及び伊奈河橋、成るの条、(追加)
44
後陽成
慶長五年七月七日
1600
徳川家康、信濃の人屋代秀正、勝永、を前田利長・堀秀治等に遺はし、軍令を伝へしむ、
45
後陽成
慶長五年七月一九日
1600
徳川秀忠、江戸を発して陸奥に出陣す、小笠原信之、その先陣に加はるの条、(追加)
47
後陽成
慶長五年七月二六日
1600
徳川家康、伊那郡飯田の京極高知に軍陣のことを命ず、家康、近江大津の京極高次に之を報じ、高次を上洛せしむの条、(追加) 家康、京極高知の音信に答ふ、
50
後陽成
慶長五年八月三日
1600
仙石秀康、秀久、関東に出陣するも、徳川家康の命により、佐久郡小諸城に帰り、真田昌幸に備ふの条、(追加)
51
後陽成
慶長五年八月一三日
1600
徳川家康、山村良勝・千村良重をして、美濃境の情況を探らしむ、
53
後陽成
慶長五年八月二〇日
1600
伊那郡飯田の京極高知、徳川家康に属し、三河に攻入らんとす、家康、高知をして、濃州口に出陣せしむの条、(追加)
54
後陽成
慶長五年八月二一日
1600
是より先、徳川家康、信濃等諸国の城に麾下の大名を配し、人質を江戸に送らしむ、是日、本多正純、旨を赤尾津孫次郎に報ず、
55
後陽成
慶長五年八月二一日
1600
山村良勝・千村良重、木曽谷平定の由を徳川家康に報ず、家康、その軍功を褒し、遠山友政等を加勢に遣はす旨を告ぐの条、 千村平右衛門等、上田二郎左衛門等をして鉄砲衆を抱へしむ、
56
後陽成
慶長五年八月二三日
1600
徳川秀忠、小県郡上田城に真田昌幸を攻めんとして、下野宇都宮を発せんとし、旨を上野沼田城の真田信幸に伝へ、その参陣を促すの条、(追加)
58
後陽成
慶長五年八月二三日
1600
徳川家康、山村良勝等をして、美濃の情況を探らしむの条、(削除)
58
後陽成
慶長五年八月二四日
1600
徳川家康、浅野長政に、徳川秀忠の、信濃口に出陣せるを告げ、長政をして、之を赴援せしむの条、(追加)
59
後陽成
慶長五年八月二八日
1600
徳川秀忠、小県郡上田城に真田昌幸を攻めんとして、軍を下野宇都宮より上野松井田に進む、
60
後陽成
慶長五年九月二日
1600
徳川秀忠、山村良勝等をして、木曽谷の警備を厳にせしむの条、(追加)
61
後陽成
慶長五年九月二日
1600
徳川秀忠、下野より信濃に入り、佐久郡小諸城に着陣すの条、(追加)
61
後陽成
慶長五年九月三日
1600
京極高知、福島正則等と、美濃岐阜城を攻めて之を陥る、家康、高知の功を賞すの条、(追加)
64
後陽成
慶長五年九月五日
1600
真田昌幸、態度を変ふるに依り、徳川秀忠、真田昌幸の属城小県郡砥石城を攻めて之を陥れ、真田信幸をして、同城を守らしむの条、(追加)
66
後陽成
慶長五年九月六日
1600
徳川秀忠の諸将等、真田昌幸を上田城に攻むの条、(追加)
67
後陽成
慶長五年九月七日
1600
是より先、京極高次、徳川家康方に荷担し、居城近江大津に篭城し、京極高知を介し、その旨を家康に報ず、依りて、是日、家康、高次に書を送り急ぎ援軍を送るべきを約す、
72
後陽成
慶長五年九月一〇日
1600
真田昌幸、松沢采女等の味方に参ぜしを褒す、
74
後陽成
慶長五年九月一四日
1600
徳川家康、三河赤坂より仙石盛長秀康、に戦況を報じ、徳川秀忠に西上を促さしむ、
75
後陽成
慶長五年九月一六日
1600
徳川秀忠、美濃に参陣せんとし、小諸を発し、下諏訪を経て木曽に入り、山村良勝の館に泊すの条、(追加)
76
後陽成
慶長五年九月一八日
1600
真田昌幸の手勢、森忠政を埴科郡葛尾城に攻む、尋いで、真田信繁等、また、之を攻む、
77
後陽成
慶長五年
1600
徳川家康、伊那郡飯田城主京極高知を丹後宮津に移し、下総多胡城主保科正光を、伊那郡高遠の旧領に復す、
79
後陽成
慶長五年一二月一三日
1600
徳川家康、真田昌幸を、紀伊高野山に幽閉す、昌幸、同地に赴くの条、(追加)
81
後陽成
慶長五年
1600
仙石盛長、秀久、の子政能、兵吉、徳川秀忠の小姓役となる、
82
後陽成
慶長六年七月二七日
1601
徳川家康、善光寺に水内郡に於いて寺領を寄進すの条、(追加) 善光寺本願の聖智円坊、同寺造工上葺のため諸所に勧進を致す、
83
後陽成
慶長六年八月二日
1601
真田信之、横山久兵衛等に、小県郡上田に於いて知行を与ふ、尋いで、大熊五郎左衛門等に知行を与ふの条、(追加)
91
後陽成
慶長六年九月三〇日
1601
伊那郡高遠の保科正直、卒すの条、(追加)
92
後陽成
慶長六年一一月二二日
1601
飛騨高山城主金森素玄、長近、徳川家康の命に依り、木曽代官山村道祐良候、に、飛騨白木の川下げにつき、違乱すべからぜる旨を伝ふ、
93
後陽成
慶長六年
1601
佐久郡竜雲寺住持大雲、天外、同寺を退き、同郡春日村に康国寺を開創す、
94
後陽成
慶長七年三月一五日
1602
仙石秀久、秀康、山城北野社に灯籠を献ず、
94
後陽成
慶長七年八月一日
1602
森忠政、高井郡幸高村等領内の村々を検地すの条、(追加)
95