長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」補遺編-下 (100頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後陽成慶長七年八月一一日1602仙石秀久秀康、の長子同関都、久忠、卒す、134
後陽成慶長七年八月二六日1602山城本願寺光昭、准如、高井郡常敬寺了照所蔵の顕照唯善、画像に裏書を加ふの条 水内郡正覚寺門徒越後浄専寺所蔵の光寿教如、画像の裏書135
後陽成慶長七年一一月二四日1602諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡ありの条、(追加)136
後陽成慶長七年1602信濃の人祢津信政、卒す、136
後陽成慶長八年二月三日1603真田信之、大熊五郎左衛門尉の死を弔ひ、香奠を同勘右衛門等に贈る、尋いで、子、同頓八をして、父五郎左衛門尉の知行並びに同心を安堵せしむ、137
後陽成慶長八年二月六日1603徳川家康、埴科郡松城の森忠政を、美作津山に移し、松平忠輝を下総佐倉より松城に移す、また、皆川広照を飯山城におき、忠輝の伝に当らしむの条、(追加)138
後陽成慶長八年四月一一日1603佐久郡法華堂祐源、仙石秀久秀康、の使者として、山城北野社に初尾料を納む、138
後陽成慶長八年七月二八日1603伊那郡代官朝日受永、近路、卒すの条、(追加)139
後陽成慶長九年二月一〇日1604徳川家康、下伊那郡の榑木を求む、大久保長安、千村良重をして、用榑奉行人森右馬助等に協力せしむの条、 年次末詳の文書140
後陽成慶長九年二月一九日1604佐久郡法華堂祐源、仙石秀久の使者として、山城北野社に初尾料を納む、141
後陽成慶長九年三月一三日1604伊那郡手塚源五郎等、上沼孫右衛門に手形を渡し、同郡市田村大明神頭役を免ず141
後陽成慶長九年六月二四日1604真田信之、番匠某に、小県郡国分寺の地を給す、143
後陽成慶長九年一〇月一一日1604松平忠輝、高井郡更級村大明神に神領を寄進すの条、(追加)144
後陽成慶長九年1604木曽代官、当年の谷中勘定目録を記すの条、(追加) 原図書の児野九郎左衛門宛の書状144
後陽成慶長一〇年三月二二日1605大久保長安、徳川家康の御用の木曽瓦木等の算用の不始末につき、岩波道能等を責む、145
後陽成慶長一〇年三月二三日1605山城北野社梅順坊能閑、仙石秀久を、山城伏見の邸に訪ふ、尋いで、また訪ふ、147
後陽成慶長一〇年四月一一日1605仙石秀久、山城北野社に知行を寄進す、148
後陽成慶長一〇年四月二六日1605徳川秀忠、将軍宣下拝賀のため参内す、仙石秀久・真田信之等、之に供奉すの条、(追加)148
後陽成慶長一〇年五月一七日1605仙石秀久、山城北野社に代参を以つて、銀子等を献ず、149
後陽成慶長一〇年九月四日1605木曽の田口甚九郎、同郡合曽の弥曽に畑を売渡す、150
後陽成慶長一〇年一一月一二日1605是より先、諏訪郡仏法寺尊朝、山城智積院玄宥の訃音を聞き、香資を贈る、是日、尭演及び依田某等、信を尊朝に通じて之を謝す、151
後陽成慶長一一年正月一八日1606山城北野社梅順坊能閑、仙石秀久に牛王札等を贈る、 秀久、北野社能閑と往復す、153
後陽成慶長一一年七月七日1606真田幸隆の子、金井真田、高勝、卒す、154
後陽成慶長一一年一一月六日1606幕府、佐久郡平沢村等の百姓を、同郡海口村と平沢村の間に移し、新宿を作らしむの条、(追加)155
後陽成慶長一一年一一月一八日1606仙石秀久の子政能、従五位下に叙せられ、丹後守に任ぜらる、157
後陽成慶長一二年二月四日1607仙石秀久・石川康正等、本多正純の公家衆を饗するに列す、157
後陽成慶長一二年四月一六日1607大久保長安、山村良勝をして、木曽材木を甲・駿州に送らしむの条 大久保長安の手代飯川五郎右衛門、山村良勝をして、駿府築城用材の伐出を急がしむ、158
後陽成慶長一二年六月二〇日1607徳川家康、角倉了以の、諏訪より遠江懸塚に至る天竜川の舟路を開けるに依り、舟役を許すの条、(追加)158
後陽成慶長一二年一一月一日1607仙石秀久、山城北野社梅順坊能閑に、知行物成代金を渡す、160
後陽成慶長一三年正月二日1608大久保長安、駿府築城のため、木曽山村良勝・遠山友政に土井板の仕出しを命ずの条、 守屋元右衛門等の山村甚兵衛宛書状等160
後陽成慶長一三年一二月一〇日1608大坂の次兵衛等、千村良重より上挽の榑木を買ふ、 千村良重の手代森又助、伊那郡より遠江日明等に下せる榑木の請払算用を記す、163
後陽成慶長一四年三月七日1609伊那郡箕輪の大泉村衆、尾張津島社に参詣す、(移動)167
後陽成慶長一四年二月一六日1609大蔵、姓闕く、千村良重の手代井口弥左衛門等に、慶長十一年分の伊那郡米川村年貢勘定目録及び同郡今田・小河村預米払方目録を指出す、167
後陽成慶長一四年三月一四日1609仙石秀久、山城北野社に最華を献ず、168
後陽成慶長一四年四月一四日1609松平忠輝、小林藤介に、川中島に於いて知行を与ふ、(移動)169
後陽成慶長一四年1609宝室庵主、法名闕く、太白峯法合血図を長呑に伝授す、169
後陽成慶長一四年一〇月一〇日1609仙石秀久、酒匂小隼人をして、佐久郡清水庄兵衛に知行物成を渡さしむ、170
後陽成慶長一四年1609石川三長の家臣渡辺又右衛門、安曇郡穂高社の鎰大夫に、その持分等の覚書を渡す、171
後陽成慶長一五年1610高井郡壁田村の縫之丞、同村名寄帳を記す、171
後陽成慶長一五年二月二六日1610真田信之、伊予久七十郎に、上野吾妻の知行地の替地を宛行ふ、(削除)176
後陽成慶長一五年1610甲斐身延山久遠寺、筑摩郡松本の本立寺に規式を渡す、176
後陽成慶長一五年閏二月三日1610越後福島城主堀忠俊の老臣堀直清、直次、弟同直寄と隙あり、徳川家康之を裁し、忠俊を陸奥岩城に配し、直寄等の封を収め、真田信之等をして越後を監せしめ、松城城主松平忠輝を福島城に移す、尋いで、直寄を水内郡飯山城に封ずの条、(追加)177
後陽成慶長一五年閏二月九日1610仙石秀久、佐藤織部に佐久郡発地の地を、井出善三郎に、同郡入布施の地を給す、179
後陽成慶長一五年四月二七日1610伊那郡石林平左衛門、同郡米川村の慶長十三・四年の年貢勘定目録を記す、180
後陽成慶長一五年九月二五日1610伊那郡飯島為延妻の供養塔、成る、 伊那郡西岸寺所在の五輪塔銘181
後陽成慶長一五年一〇月一日1610大久保長安、山村良安等に尾張名古屋築城の用材を調へしむの条、(追加)182
後陽成慶長一五年一一月一九日1610真田信之、小県郡長窪の前年分年貢勘定定書を渡す、185
後陽成慶長一五年一二月二八日1610依田金左衛門、奈良又兵衛をして、屋敷付の苅敷山を安堵せしむ、(削除)185
後陽成慶長一六年三月一〇日1611仙石忠政、佐久郡小諸城に入部す、186
後陽成慶長一六年三月二一日1611小笠原忠政、従五位下に叙せらる、186
後陽成慶長一六年四月二日1611木曽代官山村良安、木曽上松村・黒沢郷等に定書を頒つの条、 山村良安、千村良重に書を送り、名古屋城御普請手伝のことにつき相談す、 竹中重門、同城普請用材の木曽よりの伐出して奉行す、187
後水尾慶長一六年五月二〇日1611水内郡信叟寺住持宗甫、年室、賢隆より非人并天痽切紙を伝授せらる、189
後水尾慶長一六年六月四日1611真田昌幸、紀伊九度山村の配所に卒すの条、(追加)190