長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」補遺編-下 (300頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後水尾元和三年一一月八日1617徳川秀忠、保科正光をして、子幸松保科正光、を養はしむ、幸松、江戸を発し、伊那郡高遠に赴く、(追加)300
後水尾元和三年一一月二一日1617松本城主松平戸田、康長、安曇郡金松寺に地を寄進す、301
後水尾元和四年四月一七日1618松平戸田、康長、安曇郡諏訪社未社領の諸役を免ず、301
後水尾元和四年1618酒井忠勝の家臣高力一儀、埴科郡天宮山王社に祭祀料を寄進す、302
後水尾元和四年六月一三日1618小野兵左衛門、松平戸田、康長に仕官を許されんことを請ふ、302
後水尾元和四年七月一六日1618木曽衆の馬場昌次、美濃釜戸に卒す、304
後水尾元和四年七月二四日1618木曽の山村良安、卒す、尋いで、前代官の父用斎良勝、再勤すの条、(追加)306
後水尾元和四年八月八日1618幕府、肥後熊本城主加藤忠広の家老加藤丹後守中川周防等の非違を断じ、丹後守を酒井忠勝に、中川周防を諏訪頼満頼水、に預くの条、 真田信之の加藤道句宛の書状307
後水尾元和四年一〇月一三日1618是より先、伊那郡遠山三箇村、幕府領に定められ、千村良重、代官に任ぜらる、是日、遠山七郎右衛門等、良重の手代中山吉左衛門等に、同三箇村の年貢・諸役等定書の請書を指出す、308
後水尾元和四年一一月一二日1618伊那郡大島名子村百姓等、代官千村良重等より元和三年分年貢残米を預るの条、 小笠原秀政上げ地伊那郡五万石領の内名子郷等の残米請取帳309
後水尾元和四年1618徳川秀忠、下総鹿島社建立用檜皮等を木曽より送らしむ、312
後水尾元和五年正月一〇日1619千村良重代官所遠山領内の惣百姓、良重手代中山吉左衛門に、未進年貢等皆済の請書を指出すの条、(追加)313
後水尾元和五年正月二〇日1619諏訪頼満、頼水、その室と隙あるに依り、保科正光、和解を図るの条、(追加)314
後水尾元和五年三月二〇日1619佐渡金鑿人夫信濃の茂左衛門等、金山より脱走す、尋いで、捕へられ磔刑に処せらる、325
後水尾元和五年三月二八日1619松平戸田、康長、安曇郡大穴村の者に、筑摩郡日岐山に入会ふを許す、326
後水尾元和五年六月二日1619幕府、安芸広島城主福島正則に、陸奥津軽転封を命じ、松城城主酒井忠勝等に命じて広島城を請取らしむの条、(追加)327
後水尾元和五年1619幕府、陸奥弘前城主津軽信牧を信濃川中島に移さんとし、信牧の内訴により、之を停むの条、(追加)332
後水尾元和五年七月二日1619幕府、福島正則の陸奥津軽移封を停め、高井郡高井野村に蟄居せしむの条、(追加)334
後水尾元和五年七月二二日1619幕府、福島正則に令し、川中島に於いて、知行地を請取らしむの条、(追加)335
後水尾元和五年一一月六日1619幕府、明春江戸城を修築せんとし、信濃・越後の諸大名に手伝普請を命ず、是日、堀直寄、この旨を家臣に報ず、336
後水尾元和五年1619幕府、千村良重等美濃久々利衆をして、徳川義利義直、に附属せしむ条、(追加)337
後水尾元和六年正月七日1620真田信之、安中作左衛門に、上野沼田に於いて、知行を与ふの条、 信之の安中作左衛門宛書状343
後水尾元和六年二月一二日1620福島正則高井郡壁田村百姓の請を容れ、同村の荒地を開かしむ、344
後水尾元和六年二月二四日1620真田信之の室、本多氏、卒すの条、(追加)345
後水尾元和六年二月九日1620松平戸田、康長、筑摩郡保福寺村に、遠伝馬の合力料として、籾・大豆を渡すべきを約す、346
後水尾元和六年四月七日1620山村良勝、木曽岩之郷村に、慶長十六年より、元和四年までの御役榑・買榑の皆済手形を渡すの条、 良勝、木曽あららき村に、慶長十六年より、元和四年までの御役榑・買榑の皆済手形を渡す、347
後水尾元和六年五月一三日1620是より先、仙石忠政、神祗官領長上吉田兼英の意旨と称し、信濃に於ける富士浅間参詣先達職を社家にも充つべき旨を、山城聖護院に申入る、是日、聖護院、兼英にその取消を求む、尋いで、兼英、之に答へ、先例に依るべきを伝ふ、348
後水尾元和六年1620信濃濃松本の僧憲俊、伝法灌頂三味耶戒法則を書写す、349
後水尾元和六年1620長沼城主佐久間勝之、水内郡小玉村を検地す、350
後水尾元和六年一〇月三日1620仙石忠政の子万千代、政勝、生る、357
後水尾元和六年一〇月一九日1620川中島の邑主岩城貞隆、江戸に卒すの条、(追加)357
後水尾元和六年閏一二月一〇日1620福島正則、小河梅千代の帯を贈れるを謝すの条、(追加)359
後水尾元和六年1620筑摩郡の作右衛門等、尾張津島社に詣づの条、(追加)360
後水尾元和七年正月一五日1621筑摩郡長興寺住持宗永、長国、寂す、360
後水尾元和七年正月二三日1621真田信之、仙石忠政等諸大名の江戸の亭、類焼すの条、(追加)361
後水尾元和七年四月二〇日1621松下下野守の家臣岡貞吉、下野守邸広間の用材を木曽に需めんとし、徳川義利義直、の家臣杉山次郎大夫に、その斡旋を請ふ、362
後水尾元和七年1621高井郡西条村庄屋市右衛門等、同郡間山村新開予定地を、旧の如く西条村の秣場として存置せんことを間山村に請ふ、 福島正則の家臣某猪右衛門、某の新田開発等を賞す、366
後水尾元和七年五月八日1621脇坂安元の家臣加集右衛門太郎等、伊那郡殿村の申請に任せ、畑地を田地に替ふることを許す、366
後水尾元和七年九月二七日1621佐竹義宣の家臣大野勘兵衛、鉄砲輸送のため、京都より木曽路を経て、是日、江戸に到着す、367
後水尾元和七年一一月六日1621伊那郡大草村、同村の村高を書上ぐの条、 伊那郡大草村の元和三・四・五年分年貢未進書上げ368
後水尾元和七年一一月二二日1621福島正則、高井郡中島村等を検地すの条、(追加)370
後水尾元和七年1621真田信之、金井兵左衛門をして、城内の諸門番衆を取締らしむの条、 信之、金井忠兵衛に屋敷の番を命ず、372
後水尾元和八年五月一〇日1622岩城吉隆の家臣小川源兵衛等、知行地高井郡内の元和五年分残米及び同六年分物成・小物成等を算用す、372
後水尾元和八年六月二二日1622佐竹義宣、岩城吉隆の家臣神長隼人等に指図して、吉隆知行地内信濃の新開地及び信濃代官衆の政所免のこと等を取計らしむ、373
後水尾元和八年1622土屋盛次、埴科郡石川武兵衛に、日置流弓術を伝授す、 島田加兵衛の石川武兵衛宛書状374
後水尾元和八年一〇月一三日1622真田信之、埴科郡松城移封のことを、出浦昌相に報ずの条、(追加)377
後水尾元和八年1622伊那郡福与村、是月より、同村の本年年貢納帳を記す、379
後水尾元和八年一一月二五日1622小県郡楢原村、同村の本年年貢帳を記すの条、 小県郡石神村年貢名寄帳高、成る、384
後水尾元和九年正月五日1623仙石忠政、小県郡手塚村等領内諸村をして、前年の未進年貢を進済せしむの条、(追加)386
後水尾元和九年1623仙石忠政、菩提所芳泉寺を佐久郡より小県郡諏訪部村に移し、亡父同秀久の墓を改葬す、387
後水尾元和九年七月八日1623佐久郡臼田村の左兵衛、勘太郎分の地を請負ふことを、同村井出善十郎に約す、388
後水尾元和九年1623徳川家光、上洛す、戸田康長等信濃諸大名、之に供奉すの条、(追加)388
後水尾元和九年閏八月一四日1623千村良重、伊那郡諸村より貸付榑木の明細書を徴すの条、(追加)389
後水尾元和九年閏八月二〇日1623小県郡下之郷大明神社人等、同社領の復旧を奉行所に訴ふ、392
後水尾元和九年一〇月一四日1623是より先、遠山秀友、木曽山より伐出せる江戸城作事用材の美濃錦織役所通過を、徳川義利義直、の老臣竹腰正信に依頼す、是日、正信、秀友に答報し、また、山村良勝にその旨を通達す、392
後水尾元和九年一〇月一五日1623福島正則、高井郡壁田村の本年免相を定む、394
後水尾元和九年一〇月二二日1623伊那郡邑主近藤百千代直重、の家臣松原茂右衛門尉、同郡栗矢村の前年分年貢算用状を小右衛門に渡す、394
後水尾元和九年一一月二日1623幕府、木曽福島宿等に宿場定書を下す、395
後水尾元和九年1623幕府、岩城吉隆を河中島より出羽由利郡に移すの条、(追加) 吉隆信濃知行分の元和七・八年分算用のこと、 吉隆、脇坂安元に伊勢物語を貸与す、396
後水尾元和九年一二月二二日1623伊那郡の八郎兵衛、同郡南山の平兵衛に、借金返済の延期を乞ふ、398
後水尾元和九年1623幕府、越前松平忠直の家臣和田治左衛門を、真田信之に預け、信之、之を水内郡竹生村に居住せしむの条、(追加)399
後水尾寛永元年三月一五日1624幕府、松平忠直の子同仙千代光長、を越前北庄城より越後高田城に移し、埴科郡坂木村等の諸村を領知せしむ、、399