長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」補遺編-下 (400頁~)
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後水尾
寛永元年三月一九日
1624
仙石忠政、小県郡築地村の前年分年貢高を定む、
400
後水尾
寛永元年七月五日
1624
越後高田城主松平仙千代、光長、同国関田口及び長沢庄屋等をして、信濃堺通過の女人を取締らしむ、
401
後水尾
寛永元年七月一三日
1624
福島正則、薨ず、幕府、その封を収め、季子正利に三千石を給すの条、 本年の信濃諸大名禄高書上写
402
後水尾
寛永元年八月九日
1624
幕府、松平忠良の遺子忠憲憲良、を、佐久郡小諸城に移し、領知目録を渡すの条、(追加)
404
後水尾
寛永元年九月五日
1624
松平忠憲、憲良、佐久郡三井村に定書を付し、人馬の手形なくして人馬の村外に出ずるを禁ず、
405
後水尾
寛永元年九月一九日
1624
仙石忠政、小県郡東松本村の本年貢を定むの条、(追加)
406
後水尾
寛永元年一〇月二四日
1624
幕府代官青木俊定等、高井郡大飼村等の本年年貢を割付くの条、(追加)
407
後水尾
寛永元年一一月六日
1624
幕府領高井郡壁田村の肝煎新左衛門、代官設楽能業に、前肝煎作左衛門の非違を訴ふ、
408
後水尾
寛永元年一二月二日
1624
徳川忠長の家臣田中政長、佐久郡取出町等の本年年貢高を定の条、 田中政長の佐久郡の喜右衛門宛書状
409
後水尾
寛永二年七月一四日
1625
真田信之、小川源介等に知行を給す、(削除)
410
後水尾
寛永二年七月二一日
1625
向山次左衛門、千村良重の手代井口弥左衛門に、伊那郡野口村の元和六・七・九年分年貢納勘定目録を指出す、
410
後水尾
寛永二年九月一五日
1625
真田信之、大熊靭負に知行を加給すの条、(追加)
412
後水尾
寛永二年一〇月一〇日
1625
筑摩郡長称寺、戸田康長より、松本城下和泉町の屋敷地を与へられ、是日、礼銭を納む、 松本領の作事所覚書
412
後水尾
寛永二年一〇月一五日
1625
幕府代官青木俊定等、高井郡箕作村等に、本年年貢を割付く、
414
後水尾
寛永二年一一月廿五日
1625
徳川忠長の家臣平岡吉道、佐久郡鎰懸村の本年年貢高を定むの条、(削除)
415
後水尾
寛永二年
1625
幕府、松平忠直の家臣間中郷右衛門を、仙石忠政に預く、忠政、之を上田に幽す、
415
後水尾
寛永三年三月二四日
1626
小県郡の人室賀満俊、卒す、
416
後水尾
寛永三年四月一九日
1626
幕府、松平忠輝を飛騨金森重頼の許より諏訪頼水の許に移さんとし、頼水にその処遇を指示す、尋いで、忠輝、諏訪に着すの条、(追加)
417
後水尾
寛永三年閏四月八日
1626
倉科常貞、安曇郡覚音寺を修造し、是日、慶讃を行ふ、
419
後水尾
寛永三年五月二八日
1626
徳川秀忠、上洛のため江戸を発す、脇坂安元等信濃の諸大名、之に供奉す、
420
後水尾
寛永三年
1626
諏訪頼水頼満、の子同忠因忠恒、等、島田主税助より、馬術秘伝の伝授を受く、(変更)
423
後水尾
寛永三年六月二八日
1626
幕府、徳川家光の上洛するに依り、佐久間安政等信濃の諸大名をして、江戸諸橋を警護せしむ、
423
後水尾
寛永三年七月二日
1626
城昌茂、信濃に於いて卒す、 真田信之の城和泉守宛の書状
425
後水尾
寛永三年七月二〇日
1626
諏訪忠恒従五位下に叙せられ、出雲守に任ぜらるの条、(削除)
426
後水尾
寛永三年八月九日
1626
幕府、戸田康長・保科正光等諸大名を、後水尾天皇京都二条城行幸の際の馳走衆に定む、
426
後水尾
寛永三年八月一九日
1626
戸田康長、従四位に叙せらるの条、(追加)
428
後水尾
寛永三年九月七日
1626
後水尾天皇、二条城に行幸し、舞を御覧ぜらる、戸田康長等信濃の諸大名、七五三御膳に所役を勤む、
429
後水尾
寛永三年九月一八日
1626
仙石忠政、小県郡築地村の本年年貢高を定むの条、(追加)
431
後水尾
寛永三年
1626
筑摩郡小池村の草間三右衛門尉、諏訪頼水領同郡内田・小池両村等の水論・境論等につき、子細を記す、百姓等、寄合を以つて之を認む、
432
後水尾
寛永三年
1626
徳川家光、小笠原忠知の忠勤を賞し、料刀を与ふ、
436
後水尾
寛永三年一二月二九日
1626
小笠原忠知、幕府大番頭となる、
437
後水尾
寛永三年
1626
諏訪頼水、大坂加番を命ぜらる、
438
後水尾
寛永三年
1626
耶蘇会神父ディエゴ結城、近畿・北陸地方に布教し、信濃を経て、江戸に至る、
439
後水尾
寛永四年三月一三日
1627
戸田康長、筑摩郡出川のかわた頭彦七の、篭守四郎次の跡職に右衛門五郎を充てしを認む、 原与右衛門等、彦七をして葬具の敷布の配布を沙汰せしむ、
441
後水尾
寛永四年七月九日
1627
佐久間勝之、大坂加番を命ぜられ、是日、赴任の暇を賜はる、
442
後水尾
寛永四年七月二四日
1627
神祇管領長上吉田兼雄、高井郡小山村八幡宮祠官山岸吉寛に、風折烏帽子・狩衣の着用を允可す、
443
後水尾
寛永四年八月八日
1627
是より先、出羽久保田城主、佐竹義宣領院内銀山奉行梅津政景、信濃の七左衛門等に、水抜開鑿普請を命ず、是日、政景、その工事を査察し、七左衛門等の請を容れ、工事の続行を申付く、
443
後水尾
寛永四年八月一三日
1627
真田信之、大熊靭負に、知行を給すの条、(追加)
444
後水尾
寛永四年八月二二日
1627
松平忠憲、憲良、小県郡長安寺に、屋敷地を与ふ、
445
後水尾
寛永四年八月二四日
1627
諏訪郡仏法寺俊鑁、寂す、
445
後水尾
寛永四年九月二四日
1627
仙石忠政、小県郡諏訪部村等領内諸村の本年年貢高を定むの条、(追加)
446
後水尾
寛永四年
1627
佐久郡内山村薬師如来、成る、
448
後水尾
寛永四年一一月一日
1627
戸田康長、筑摩郡松本本町の家屋敷を、博労の武右衛門に売渡す、
448
後水尾
寛永四年一一月三日
1627
佐久間勝之の子勝友、徳川家光に初めて目見えす、
449
後水尾
寛永四年一一月一六日
1627
幕府代官青木俊定等、高井郡一本木村を検地すの条、(追加)
449
後水尾
寛永四年
1627
徳川家光、市岡忠次に、伊那郡三百石余の領知状を与ふ、
451
後水尾
寛永五年二月二三日
1628
是より先、諏訪郡神戸百姓等、同郡大平百姓等と、山のことにつき争論す、是日、同郡新町の河西藤右衛門、同郡青柳の樋口長兵衛等の扱に依り、両者和解し、神戸百姓善之丞等、大平百姓与一左衛門等に証文を渡す、
452
後水尾
寛永五年三月一一日
1628
千村重長、同重利の、伊那郡小野村の元和二年より寛永四年までの年貢を皆済せるを証す、
453
後水尾
寛永五年四月二〇日
1628
上田城主仙石忠政、江戸に卒すの条、(追加)
454
後水尾
寛永五年一〇月二日
1628
上田城主仙石政俊、小県郡東上田村の本年年貢高を定むの条、(追加)
456
後水尾
寛永五年一〇月七日
1628
仙石政俊、佐久郡鷲見九郎右衛門の、政俊の家督相続を賀し物を贈れるに答謝す、
457
後水尾
寛永五年一二月五日
1628
戸田康長の家臣伊藤作右衛門等、領内のかわたの処置をかわた頭彦七に委す、
457
後水尾
寛永五年一二月一三日
1628
是より先、江戸城普請奉行、真田信重に同普請下奉行を出すべきを命ず、是日、信重、同信之にその処置を問ふ、
458
後水尾
寛永六年正月二五日
1629
埴科郡の人清野満成、上野藤岡に卒す、
459
後水尾
寛永六年二月二二日
1629
戸田康長、領安曇郡大町村の借籾覚帳、成る、
461
後水尾
寛永六年
1629
幕府、脇坂安元等信濃の諸大名に命じ、木曽山の幕府用材伐出人足を出さしむの条、(追加)
464
後水尾
寛永六年八月一七日
1629
徳川忠長、佐久郡上畑村を検地すの条、(追加) 徳川忠長領佐久郡内諸村の検地帳 寛永七年の佐久郡崎田新田村検地帳等
466
後水尾
寛永六年九月二一日
1629
仙石政俊、小県郡築地村の本年年貢高を定む条、(追加)
470
後水尾
寛永六年一〇月二日
1629
真田信吉、蟻川正蔵に同佐内知行跡上野吾妻の地等を宛行ふ、
472
後水尾
寛永六年
1629
山村良勝、致仕すの条、(追加)
472
後水尾
寛永六年
1629
小笠原忠知、大坂在番を命ぜらる、
473
明正
寛永七年四月六日
1630
是より先、越後高田城主松平光長領埴科郡戸倉村百姓、同郡屋代堰通水路の変更に関し、松城城主真田信之領屋代村等堰下百姓と争論に及ぶ、是日、光長領坂城代官長谷川茂次、信之の家臣常田図書の訴に答へ、新水路の開鑿は旧水路による水損を防がんための処置にて他意なきを伝ふ、 年次不詳の諏訪文書
474
明正
寛永七年六月二〇日
1630
真田昌幸の女、村松殿、卒す、
482
明正
寛永七年九月三日
1630
小県郡長窪の石合十蔵、是日より、大福帳を記し始む、
483