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(八)澄圓

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 澄圓は和泉國大鳥郡の人で、智演と號した。(旭蓮社緣起)大鳥郡吏義貞永仁元年七月家原文殊堂に祈請し之を得て子養するところと云ふ。七歳觀律師に就いて出家し、十歳の時沙彌戒を受け、倶舍、唯識等を學び、深く經論を探り、十七歳槇尾山施福寺に登り、三部密灌を受けて之に精練し、悉曇章を善くし、兼て諸宗の奧義に通じ、八宗の章疏を讀破した。二十歳の時東大寺の戒壇に登つて受戒し、螢雪倦まず、汎く經史諸子百家の説より、神道の諸書を閲し、内外の諸典に通じたが、未だ台家の教旨を見ざるを遺憾とし、【叡山學習】叡山に登り、承遍法印の室に於て學習した。次いで京都に出で、師を尋ねて道を求め、建仁寺に入つて虎關師鍊の禪機に接したが、虎關は彼を畏友とした。尋いで關東に下つて、一寧一山に參じ、直指人心の眞印を握つた。澄圓常に本朝念佛門の獨り入唐來朝の授受を闕くを嘆じ、淨土教善導の疏書を披き、他力一門、易修易行、末世衆生出離の要路を審かにせんとし、(澄圓菩薩略傳)文保元年四月遂に元に渡り、【元國東林禪寺に入る】直ちに廬山に登つて東林禪寺に入り、優曇普度禪師に參して白籏流を汲み、留學すること六年、靈地を跋涉し、顯密の教義を究め、(澄圓菩薩略傳、淨土傳燈總列祖傳卷之五、淨土系譜)元亨元年楚俊明極の來朝と共に、經論書籍數百卷を携へて歸朝した。正中元年後醍醐天皇の勅により泉州大鳥郡堺濱に廬山を移し、【本朝廬山の創建】之を本朝廬山と號し、精舍を建てゝ旭蓮社と名づけ、(澄圓菩薩略傳、淨土列祖傳卷之五)天皇永一萬貫文を附して寶祚の延長、國家の安全を祈らしめ給ふた。卽ち甘露山と號し、【蓮社號の嚆矢】八宗兼學の道場として本朝蓮社號の嚆矢となつた。康永元年疫病大に流行し、光明天皇官符を下して、國家安全を祈禱せしむるや、澄圓勅を奉じて大般若經を轉讀して功あり、大菩薩の號を賜はり(澄圓菩薩略傳、淨土列祖傳卷之五)永く綸旨を下して勅願所となし、【賜紫の榮に浴す】大阿彌陀經寺の號を賜はつた。澄圓又夢窓國師の述作した、夢中問答中に念佛門を以て小乘として居るのに對し、其未だ洪經大論を咀嚼せず、甚だ佛祖の意に違ふものとなし、松風論を著して之を駁し、且つ同書を上つり、上表して淨土教の小乘にあらざる所以を述べて叡斷を仰いだ。【淨土宗中興】世人淨土宗の中興と稱した。澄圓老齡九十五歳に及び、應安五年七月竟に鎭西流白籏の正統を法弟に傳へ、一日自ら肖像を刻し、亦眞影を畫き、倐忽として去つた。法臘七十五。其撰集するところ、十勝論、松風論、驚覺論、淨土五祖辨、同疏、淨土諸祖系圖、同光彩論、淨土諸流緣起集、二道對辨論、釋門息諍論、破邪顯正論、蜀道論、琢磨鈔、獅子伏象論、二論問答集、愚問賢答集、呂律集、二愚一賢集、知恩報恩集、親近知識集、能斷金剛集、初心行護抄等都て百有餘卷に達してゐる。【高弟】旭蓮社第二世澄嚴、第三世文惠、第四世道譽等は皆其高足である。(澄圓菩薩略傳)