松井友閑は織田信長の右筆で、後宮内卿法印に任ぜられた。(信長記)堺代官として在勤の際、恰も元龜元年四月信長岐阜から上洛して、【茶器上覽の奉行】京都及び堺に於ける茶器の珍器を覽んとて、命を友閑及び丹羽長秀に傳へ、之を奉行させた。(堺鑑下、全堺詳志卷之下)又信長高野山に派兵の際には、部將となつて活躍した。天正五年八月、【友閑の戰歴】松永久秀謀反の際には信長友閑に之を諭せしめ、同六年十月荒木村重擧兵せんとするや、亦信長は友閑等をして懷柔せしめんとした。次いで同八年閏三月、信長本願寺と和睦の際、目付として本願寺の誓紙を受領し、同年八月には佐久間信盛父子に譴責狀を傳達した。十年五月家康安土より京都に出遊し、やがて堺に下つた際には、友閑に招かれ茶會に列してゐる。