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(二四)瑞溪周鳳

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 瑞溪周鳳、臥雲上人、鞣羊僧、竹鄕子、刻楮子の號がある。俗姓は伴氏。元中八年十二月堺に生れた。後戰亂を避け、擧家丹波國桑田郡に徙つたが、應永六年九歳の時丹波も亦戰亂の巷と化し、父亦戰死したので母に伴はれて京都に上り、外祖母に倚つた。外祖母は明極楚俊の法弟で、異母兄單丁庵の住僧であつた性庵主に囑した。瑞溪師事すること五年、十六歳剃髮得度し天龍、相國、鹿苑等の諸大寺に出入し、二十八歳奈良の興福寺に寓し、【南都硏學】普一、玄啓の二講師に就いて硏學した。既にして鹿苑院に歸つて嚴中に侍し、學徒に教授し、嚴中相國寺に移るに及んで之に從ひ、永享八年分座説法した。是歳八月將軍足利義教の命によつて景德寺に住し、翌年の夏更らに等持寺に移り、住すること四年、同十年鎌倉の執權足利持氏家宰上杉憲實と善からず、遂に相戰はんとするに際し、將軍義教は瑞溪をして往いて諭さしめた。其京師より關東に至る間、歷程の勝槪、【入東記】佛宇僧盧の狀態を記して一も遺さず入東記一卷を作つた。同十二年四月八坂法觀寺塔供養九高僧の選に當り、次いで是歳秋台命を奉じて相國寺を管し、嘉吉元年義教薨去の後には小院を寺の北邊に營んで壽星と名づけ、壁間壽星の像を揭げ、終に此に退休した。此像は嘗て將軍足利義滿が無仲周仲に下賜したものであつた。【義教、義政の崇信】義政の後義政も亦崇敬篤く、文安三年鹿苑院に請して、僧錄司に任じたが、翌年壽德院に歸り、康正二年再び鹿苑院に住して僧錄司となり、在職五年、北禪庵を營んで隱栖した。寬正五年將軍足利義政の請により、知恩院に法華經を講じ(翰林胡蘆集)又文正元年夏、【善隣國寶記】善隣國寶記を編し、隣交來往の梗槪を敍し、應永九年足利義滿の遣明表に至り、日本國王臣と書するの不可を論じて大義明分を正した。(善隣國寶記)既にして應仁元年大亂開始せらるゝや、嗣子默堂、慈雲の招請により亂を北山の岩藏に避け、著述を事とし、後命に因り僧錄司となつた。時に年七十七。【僧錄司たること三囘】瑞溪此職に在ること前後三囘、人之を以て異數とした。文明三年十二月後土御門天皇に召されて南禪寺住山の命を受け、紫衣を賜はつたが辭して受けず。更らに國師號を賜ひ、戒法を受けられんとしたが、之も亦固辭した。義政奏して、夢窓國師を追請して瑞溪に代らしめんとした。瑞溪卽ち夢相の頂相及び衣盂を齎して參内し、公卿百官、其儀容の盛大なるを歎稱した。依つて重ねて夢窓に諡して大圓と云ひ、以て七朝の帝師とした。同五年義政普廣院を陣中に建て陞座説法を請ふたが、答へて今年八十三、命旦夕に迫る、況んや期に餘月あり、乞ふ命を緩うして之を待たんと、五月四日初病を獲、八日談笑自在裡に示寂した。世壽八十三。遺骸を北岩藏の麓に葬つた。【滅後の光榮】滅後十年、文明十四年後土御門天皇道譽を追慕し、敕して興宗明教禪師と諡した。瑞溪生前蘇詩に精しく、諸説を萃めて脞説二十五卷、補遺一卷を作り、又法華、維摩、圓覺、金剛、楞伽、盂蘭盆等の諸經、傳燈、碧巖等の諸錄を講じて四來の雲衲を鞭勵した。資性亦孝順、相國寺に掛錫の日、母の喪に値ふた際には、【著作】書籍を典して後事を辨じたといふ。刻楮集二百卷、語錄二卷、夢悟集一卷、臥雲稿、竹鄕集一卷、人天眼目批判一卷、入東記、溫泉行記各一卷、善隣國寶記三卷、臥雲日件錄六十餘卷、其他文詩集若干卷あり、皆世に行はれて居る。(興宗明教禪師行狀(翰林胡蘆集))

第八圖版 日隆彫像

 
 

第九圖版 瑞溪周鳳畫像

 
 

第十圖版 松鷗齋記