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(三四)衆德恩冏

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 衆德恩冏姓は佐々木氏、近江淺井郡の人である。(淨士列祖傳には、甲賀郡の人とす)享德元年四月生まる。幼より好んで念佛を唱へた。其叔母清心尼、今の堺御幸道の邊に草庵を結び、朝夕稱名念佛を事とした。卽ち今の超願寺がそれである。恩冏十五歳の時、【堺に來り出家す】叔母の草庵を慕ふて堺に來り、出家して淨土教に入り、其蘊奧を極め、常に木杓を腰にし、淨財を市の南北に求め、淨土三部經、妙典十萬部を書寫した。見聞するもの之を歡喜し、緇白の徒靡然として之に贊し、大願速かに成つた。【十萬上人】是より世擧つて十萬上人と號し、又十萬佛餉とも呼び、爾來其地を十萬と稱するに至つた。晚年堺の南端に徙り、一寺を創建し、又十萬と號した。長泉寺(現新在家町東四丁)是れである。【南北兩十萬】これより十萬は南北兩寺に分れた。恩冏慈悲の心深く、晝夜受苦の人に代り、極寒の際には大道に薼を掃き、盛暑の節には田畠に水を漑ぎ下男田夫の苦を救ひ、或は貧者病人を救恤し、或は孤獨窮民を慈育し、寺域の北に家屋を建設して此處に收容した。其子孫は文化五年に至るまで十萬の境内に居住して居つたが、境内狹隘を告ぐるに至り、稻荷社(現高須神社)の邊に長屋を建てゝ之に徙らしめた。【十萬長屋】今俗に十萬長屋と稱してゐるのは其遺址である。是等のものは開山の慈恩に報いんが爲めに、每年堺の南北を巡つて米錢を乞ひ、開山の供養をなすを例とした。恩冏亦或時は路傍に死屍を收め、自ら抱いて海に浴せしめ、之を淨地に埋めた。人其慈悲に感じて、又悲田院と稱した。【常樂梵鐘鑄造の功】天文二年天神常樂寺梵鐘鑄造の際、恩冏四方に化緣して淨財を募るに當り、之を聞いて戮力するもの頗る多く、日ならずして成就した。(北十萬略緣起、十萬上人略緣起)卽ち鐘銘にも、天文二年癸巳卯月十八日勸進坊主北ノ十萬衆德とあるので其事が知られる。(舊常樂寺鐘銘拓本)恩冏同年六月七日、世壽八十二歳を以て歿した。(淨土列祖傳卷之五)