日辰俗姓は田村、【武家の出】家世々武道を以て聞こえ、代々大和に住した。父量親(法名宗親)の代に京都に徙り、姓を村田と改めた。日辰は永正五年八月京都綾小路西洞院の邸に生れ、幼名を壽成と稱した。八歳住本寺の日法に就いて剃髮得度し、法號を右京と稱した。日法歿後常樂院日慈に師事し、大永五年二月更らに住本寺に歸り、日法の後董日在に就いた。同年八月本隆寺の開山日眞に天台三大部の講説を聞き、爾來就學六年、其間硏鑽討究怠るところなく、同門の英俊日諦、日映等と交り、遂に享祿三年本山住本寺の本堂に於て説法滿座の功を遂げた。既にして此年駿河の本門寺に日心を訪ひ、富士一流の所傳を敲いて得るところあり、翌四年五月歸山した。【國典周易の學習】斯くして亦吉田の神官清原宣賢に從ふて國典を學び、且つ吉田流の神道を兼習し、傍ら醫方をも究め、更らに天文五年四月には日向に赴き、九澤に就いて周易を學んだ。同十年建仁寺の經藏に於て一切經を閲し、同十四年北野天滿宮の内會所に於て、再び大藏經全卷の閲讀を了り、【大藏經拔萃】更らに抄錄彙類して大藏經拔萃五十卷を作つた。道譽天朝に達し、權大僧都に補せられ、更らに二十三年十二月法印に昇敍した。是より先き天文五年の法難に、上行寺、本住寺の兩本山は共に燒擊せられ、一門二山の復興は、頗る困難となつたので、同十七年十一月終に二山を併合して一寺となし、要法寺と改め、十五箇條の法度を定めて永世の法規とした。【堺の宣教】同二十三年四月布教の爲め堺に下り、調御寺(現宿院町東三丁)に於て弘通宣教中、他門の信教者二人來聽し、所論に對して三箇條の疑義を質問した。卽ち、一々文書を以て明答を與へた。又妙法寺(現中之町東三丁)の佛壽坊日現が、【法戰諭難】再び三箇條の難問書を送つて其囘答を追つたが、一々義理整然たる應酬をした。此問答を錄したものに、本迹問答一卷がある。弘治元年十一月、年四十八歳要法寺に住持となつた。同二年七月重ねて富士の本門寺を訪ひ、永祿元年東國教化の爲め甲斐を巡錫し、十月本門寺に登つて此處に越年し、二年三月府中の成田宗純の邸に駐錫して、宗風の宣傳に努め、四月轉じて美濃に入り、正興寺に掛錫し、説法開座法幢頗る盛んであつた。天正四年十二月十五日世壽六十九歳を以て遷化した。述作書五十四部の多きに達してゐる。(日辰上人傅)