山上宗二は堺山上の人で、瓢庵と號した。茶湯を利休に學び、【秀吉に仕ふ】豐臣秀吉に仕へた。(山上宗二記、茶人系傳全集)宗二は紹鷗、宗易の如き才識なくして、【茶人に對する諷示】徒に新意を企つる茶人は、鵜の眞似をする烏であらうとて、「大井川くゐせにきいる山からす鵜のまねすとも魚はとらしな」の一首を示して之を諷刺した。又茶席にては雜談を避けよとて、夢庵肖柏の狂歌「我佛となりのたからむこしうといくさのはなし人のよしあし」を示して、其心得とすべきことを諭した。(茶事談)又慈鎭和尚の和歌に「けかさしとおもふ御法のともすれは世わたるはしとなるそかなしき」とあるを引いて、師利休は常に此和歌を口吟んだが、利休のみならず、茶湯を以て生活の道を立つることの恐ろしさを示した。【茶道の著書】茶談一卷を著し、山上宗二記といふ。これは珠光の一紙目錄に、紹鷗の追加を錄し、之に自己の所見を記したもので、茶湯の起源、名器及び名蹟の形狀、性質、來歷より、茶湯の心得、茶の手前、所作等に及び、更らに數寄屋の間取には、紹鷗四疊半左勝手及び自己創意の細長三疊等を記したもので、卽ち自己の茶湯生活三十年間の覺書である。(上山宗二記)天正十七年三月之を錄して、其門弟江雪齋皆川山城守に贈つたものである。(山上宗二記、全堺詳志卷之下)