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(一五二)高三隆達

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 【顯本寺高三坊の始祖】隆達俗姓は高氏、堺顯本寺の子坊、高三坊の第一祖で自庵と稱した。【家系】祖先は漢人劉氏、(高三過去帳)來朝歸化して筑前博多に居住し、貞和の頃、高三三郞兵衞道玄堺に移住し、(高三家系圖)錢屋町に居り、(錢屋町は後の兩替町で、宿屋町の山之口に當る)藥種交易の業を營んだが、高三三郞兵衞と三の字重複しては呼び難きにより、高を改めて高三を以て氏とした。十數代其業を傳へ、天正の頃に至り、高三三郞右衞門隆喜に至り菩提所なる顯本寺内に一宇を營み、田畠六石の所得を以て隱栖し、自家の姓に因んで高三坊と稱し、末子隆達を以て其住職とした。【本家に復歸】然るに本家の兄隆德病死し、子道德遺跡を繼いだが、若年であつたので、隆達後見をすることゝなり、坊を甥の寺住坊日根に讓り、還俗して本家高三家に復歸した。隆達一流の小謠を謳ひ出し、世俗之を隆達節と稱して大に世に流行した。又堺流の書道を能くした。【秀吉に召さる】豐臣秀吉大阪在城の際、堺津に命じて一藝に秀でたるものを召したが、隆達も書道を以て撰に預かり、印六石を與へられたが辭して受けず、是を顯本寺に納むることゝした。爾來隆達は屢々秀吉に召されたこともあつた。(高三過去帳)【隆達節】隆達若冠から日蓮宗を信じ、禪機にも觸れ、特に天成の美音の上に、僧侶として聲明を學び、諷誦を習ひ、加ふるに音樂に對しては寔に天才で、各種の音曲を折衷調和して、一流の小唄を謠ひ出したのである。(小歌初祖高三隆達誌)其小唄は足利時代の閑吟集の影響を受けたところが多く、卽ち足利から德川への連鎖をなすものともいふベきもので、前を承けて後を開くの跡が見える。(歌舞音曲考説)慶長十六年十一月二十五日享年八十五歳を以て歿し(高三過去帳)法號を自在院隆達と稱した。(墓表、高三過去帳)堺鑑、聲曲類纂、類聚名物考、嬉遊笑覽等に、隆達は元日蓮宗の僧侶で、顯本寺の寺内に住したが、故あつて俗人となり、高三氏の家に往いて藥種を商ひ、後小歌の一節を歌ひ出したよしを記して居るのは、多少事實を誤り傳へたものであらう。

第三十七圖版 高三隆達墓表(堺市顯本寺境内)