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(二)織田長益

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 織田長益は信長の弟で、源五郞と稱し、天文十六年出生した。(寬政重修諸家譜卷第四百九十二)【戰功】信長の武田征伐に當り、天正十年二月兵を率ゐて信濃に入り、木曾義昌を桔梗原に援け、三月高島及び深志城を守つた。六月兄信長の弑せられた際には三條に在つたが、變を聞いて遁れ去つた。後豐臣秀吉に仕へ、十三年七月從四位下に敍し、侍從に任ぜられた。【有樂齋如庵】幾何もなく剃髮して、有樂齋如庵と號し、又乃其軒融覺と稱し、(茶事談)攝津嶋下郡味舌に二千石を食んだ。慶長五年德川家康の東征に隨ひ、下野小山に至り、關ヶ原の役に、石田三成の部將橫山喜内の冑首を獲た。役後戰功により大和山邊郡内に新知を加へられ、總て三萬石を領した。十九年大阪城に在つて盟主に推され、元和元年の役には京都に居つた。(寬政重修諸家譜卷第四百九十二)【大阪城中の盟主】後料田各一萬石を、四男長政及び五男尚長に分ち與へ、其餘の一萬石を以て養老料に宛て、東山に隱遁して、茗讌を事とした。(寬政重修諸家譜卷第四百九十二、野史卷六十七)
 【茶湯利休に學ぶ】長益始め茶湯千利休に學び、傍ら禪旨を究め、利休歿後は斯道の宗匠と稱せられた。(茶人系傳全集)曾て堺に茶室を構へて之に居つた。【堺に茶室を構ふ】因つて其地を有樂町と云ひ、後今井宗薰に讓つた。(文化十年手鑑、元祿二年堺大繪圖)地は現宿院町東二丁の地域内にあたる。【墓所】七年十二月十三日京都東山に卒し、建仁寺の正傳院に葬つた。享年七十五歳。(寬政重修諸家譜卷第四百九十二)法號を正傳院如庵有樂居士といふ。(茶事談)【正傳院の開基】正傳院は長益の開基で、(寬政重修諸家譜卷第四百九十二)有樂好の茶室があり、世に之を袴ぼしの數寄屋といふ。(茶事談)