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(三)山名豐國

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 山名豐國は豐定の子、始め元豐と稱し、從五位下中務大輔に敍任した。姓は源氏、其先は源義家より出でた。【入道禪高】入道して禪高と號し、始め因幡岩井城に治し、毛利輝元と戰ひ、後但馬の八束に移つた。共後、兄豐數武田豐前の爲めに、鳥取城を奪はれたことを憤慨し、家臣及び尼子氏の亡臣山中幸盛と謀り、恢復を企て、目的を達して同城に入り、因幡の守護となつた。【因幡の守護】天正六年五月豐臣秀吉大軍を率ゐて因幡に入り、鳥取城を圍んだ。此時家臣中村大炊、森下出羽等、豐國に叛いて、志を毛利氏に通じ、豐國の男勝七郞を擁立した。是に於て豐國遁れて秀吉に歸順した。【鳥取城を拔く】其後秀吉に從ふて鳥取城を拔いたが、終に本國を領知するを得なかつた。【家康の眷遇】秀吉麾下に招いたが、舊家の故を以て固辭し、同國村岡に蟄居し、後又攝津多田庄の舊臣多田監物の許に移つた。同十四年德川家康上洛の際謁見し、後屢々眷遇を被つた。關ヶ原の役には家康に從ひ、十月命を受けて、但馬氣多郡高田庄に赴き、齋村秀則の竹田城を收め、國務を處理した。【七味郡領邑】六年但馬七味郡の内に於て、六千七百石の采邑を與へられた。後家康及び秀忠に近侍し、十九年大阪の役に、本多正の軍に從ふた。(寬政重修諸家譜卷第七十一)南宗寺澤庵宗彭の父秋葉綱典は、山名氏の舊臣であつた關係から、(東海和尚紀年錄)【南宗寺の再興援助】元和の役、同寺の兵燹に懸かつた際には、豐國大檀越として、小出吉英等と力を勠せて再興に竭した。(泉州志卷之一)【墓所】寬永三年四月致仕し、十月七日享年七十六歳卒去、京都妙心寺の東林院に葬つた。法名禪高、諡して東林院と號した。(寬政重修諸家譜卷第七十一)

第四十一圖版 山名豐國畫像