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(五九)翠巖宗珉

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 宗珉、字は翠巖、自ら似玉又は栖蘆子と號し、(紫巖譜略、龍寶山祖師傳卷五)堺に生れた。【堺半井云也の男】半井慶友の男云也(牧羊軒奇雲云也居士)津田宗及の女を娶り、宗松(牧羊軒主法眼雪嶺宗松居士)及び翠巖を生んだ。卽ち宗松の弟で、大德寺江月宗玩の家姪に當つてゐる。(半井家系圖)【大德寺住職】江月に嗣法し、明曆三年三月大德寺第百九十五世となつた。後寸松菴(二世)に退老し、本山の引清軒及び爲隣軒、京北の山隱軒、肥前平戸の春江菴等は、皆其開創するところであつた。(紫巖譜略、龍寶山祖師傳卷五)【南宗寺二十世】又山城宇治の藏勝菴を中興し、(龍寶山祖師傳卷五、龍寶山大德禪寺世譜)後肥前に至り、平戸の是興寺、同清淨菴及び涼月菴の請を受けて、開山となり、(紫巖譜略、龍寶山祖師傳卷五)又南宗寺の第二十世を繼いだ。(南宗寺歷世年譜)誌文に長じ、能書の聞こえ高かつた。(日本書畫名家編年史卷四上)【遣偈】寬文四年七月二十三日辭世の偈を書して曰ふ、「來々去々、去々來々、柱杖雖痩、附一朶梅、驢年猫目、一衆珍重」、と。筆を擲ち茶二碗を喫して示寂した。世壽五十七。寸松菴に葬つた。【禪師號勅諡】寬文十二年三月靈元天皇法雲大仰禪師の號を勅諡せられた。(寶山住持世記上、龍寶山大德禪寺世譜)堺大通菴址に其墓碑がある。

第五十一圖版 翠巖自畫贊