ビューア該当ページ

(六〇)玄恕

234 ~ 236 / 897ページ
 玄恕諱は魯洞、一に聖譽と號した。(淨土列祖傳卷之五)【旭蓮社十九世】旭蓮社の第十九世である。(旭蓮社緣起)父は山中左衞門義繼、(淨土列祖傳卷之五)始め德川家康の乳母阿智耶局の猶子となり、遠州橫須賀撰要寺の德譽に就いて、剃髮得度し、十五歳の交、下總生實大嚴寺の三世靈巖に學び、後上野に徒り、館林善導寺の隨波に參禪した。(旭蓮社緣起、淨土列祖傳卷之五)道德堅固、知識深淵に、且つ能書の聞こえがあつた。【撰要寺住職】慶長十七年德譽は、幕命により、京都百萬遍智恩寺に轉住するに及び、玄恕後を襲ふて、撰要寺の住職となるや、來學のもの常に一百餘人に及んだ。【大恩寺中興】元和五年紀州侯德川賴招請して大恩寺中興の祖たらしめた。【大智寺開祖】寬永九年正月前將軍德川秀忠薨去し菩提の爲め大智寺を創剏せらるゝに當り、開祖となつた。【旭蓮社隱栖】既にして老境に達し、旭蓮社開山澄圓菩薩の遺德を慕ひ、大智寺を辭し、堺奉行石河土佐守の斡旋により、遂に旭蓮社に隱栖した。(常蓮社然譽玄恕師略傳)【入寺の際の決意】始め入院に際し、開山像に誓つて曰ふ、吾當寺に有緣の者ならば、蓮池の蝦蟆永く鳴聲を停めよ、若し無緣の者ならば、鳴聲止まる勿れと、こゝに於て蝦蟆の鳴聲自ら止んだとの逸話を殘してゐる。【道譽】爾來四方の道俗道譽を聞き、其德風を渴仰し、或は攝津實栗屋村の人の危難を免れし事、大阪の商人が紀州に赴く途中盜難を免れし事、又同寺の附近に住する豆腐屋夫妻を感化した事等、玄恕の高風を偲ぶ傳説は頗る多い。【永春院創建】玄恕其母永春尼の爲めに、境内に常修不斷念佛の一宇を構へ、之を永春院と號した。寬文五年十二月十六日世壽八十七歳を以て遷化し、同寺に葬られた。(旭蓮社緣起