小河一敏通稱は
彌右衞門幼名恆太郞、【豐後竹田の人】豐後竹田の人、文化十年正月生出した。【岡藩士】家世々豐後岡藩に仕ヘた。幼にして藩儒野溝清格に就き、【學藝】又
朱子學を角田九華に修め、後陽明學をも兼修し、文武の業殆ど薀奧を究めざるなく、兼て詩歌文章を善くし、傍ら
茶湯、挿花、香道の末技に至るまで亦皆達せざるはなかつた。藩主久昭の時、藩論勤王、佐幕に分れ、相爭ふに際し、【勤王論派の主魁】一敏は勤王論派の主魁となり、文久以來薩藩の有志と結び、所謂伏見寺田屋の變には劃策中の一人であつた。これより屢々岩倉、大原兩卿の眷顧するところとなり、在京勤王黨の牛耳を執つて活躍した。既にして同二年九月歸藩幽閉せられたが、やがて恩赦に會し藩論を一變して爾來專ら王事に力めしむることゝなつた。然も慶應元年二月、藩主幕命を憚かつて再び一敏を幽し、其中に王政復古を迎へんとするに當り慶應四年四月赦されて太政官に出仕し、【内國事務局判事】同年四月參與職内國事務局判事となり、堺在勤を命ぜられ、次いで五月大阪府判事に轉じ、堺に在勤し、【
堺縣知事】
堺縣知事に累遷し、八月七日御卽位の大禮に際し參朝し、紫宸殿の階下一等知縣事標に排列して宸儀を拜し、九月再び京都に出仕し、小御所に於て天盃を賜はつた。是月太政官紙幣發行せられたが、其數足らず、民間の流通に不便が少くなかつたので、【楮幣發行】一敏假に壹
朱、二
朱、壹步の三小札を作り、管内限り通用せしめ、庶民の便を計つた。十一月一敏管内一般に舊慣に泥まず農業に精勵し、質素儉約を旨とし、品行を愼み、殖産興行に注意し、副業を奬勵し、【新政に對する演達】貧救病難者等には相互扶助の方法を立つ可き所以の道等十箇條を演達して、新政に際し民心の歸嚮する所を知らしめた。明治二年の東京會議には上京し、五月書を岩倉公に上つてゐるが、彈正臺の設置を見たのは、其上議に基づいたものであらう。七月制度の改正あり、從前の百官を廢せらるゝに當り、更に
堺縣知事に任ぜられた。【改名】此時から通稱
彌右衞門を廢し、一敏のみを稱した。やがて從五位に敍せられ、八月堺に歸つた。【治水の功績】前年霖雨洪水、大和川の堤防を決壞し、是歳秋穀稔らず、縣民塗炭に苦んだ際とて大に之を憂ひ、縣官と謀つて俸を割き、首として義捐によつて、救濟の目的を達せんとしたが、上司の容るゝところとならなかつた。是より先、一敏縣民の凶荒に苦むを見るに忍びず、曾て破壞した堤防を修築し、窮民をして勞銀を得しめ、之を以て救濟に換へ、又縣札を發行して、融通の資に供せんとし、數々民部省に上言したが許されず、慘狀坐視するに忍びざるものあり、遂に意を決し、專斷を以て所志を斷行した。こゝに於て八月本官を免ぜられ、
堺縣在職中、縣札、狹山藩札、膺金引替及び堤防救助等の件に關し、專斷の取計をした廉を以て、謹愼を命ぜられた。然も一敏は令を縣内に發するに先だち、能く庶民の情狀を探究し、若し利あらずと認むるときは、敢て令せなかつた。(
小河一敏事略)始め
兩國の蠶業振はず、一敏泉州南郡木下元次郞及び河内交野郡山添文三郞を、信州上田に派して其法を硏究せしめ、且蠶卵紙及び桑苗若干を
兩國に配布し、【蠶業を興こす】蠶業次第に興隆した。泉州人は桑苗に名づけて小河桑と稱したと云はれてゐる。【
高野山僧徒の騒擾を鎭む】又明治二年
高野山堺縣の管轄の際、一山の僧徒等廢寺の沙汰を慮り、頗る疑懼したが、一敏登山して事皆舊に仍るべきを令し、説諭して山内の轢軋なからしめ、又曾て燒失した大塔の再建を令した。(
小河一敏小傳)
第八十一圖版 小河一敏和歌短册
【敬神の至誠】一敏忠君、愛國、敬神の至誠を以て心とし、訓誡皆此趣旨に基かぬものはなかつた。明治元年八月聖上卽位の大禮を行はせらるゝに當り、管下大小諸社の祠官をして、玉體安全、寶祚無窮を祈禱せしめ、大典の前後衆庶に令して、火氣及び諸事謹愼すべきことを嚴令し、同九月車駕東京行幸についても亦祈禱を修せしめた。同二年中管内巡視に際し大小の神社に參詣の際は必ず社頭の民家等について衣服を改め、烏帽
子直垂を着し、神前に稽首三拜して崇敬を盡し、事終つて又故の如く旅裝に改めた。斯の如きこと一日數囘に及ぶも、毫も嫌厭せず、從者煩に堪へず困憊の狀があつた。(
小河一敏事略)次いで同年九月謹愼を免ぜられ、【宮内大丞御系圖御用掛】翌日宮内大丞に任ぜられた。爾來陋習を改革せんとし、三條の建議を上呈したが、採用せられなかつた。因て自ら請ふて、十月御系圖御用掛となつた。【御讀書會に侍座を命ぜらる】十一月聖上御讀書會の時、官務の餘暇を以て、侍座せよとの命があつた。四年三月突然不審の事ありとし、卽時八重洲河岸鳥取藩邸に幽囚せられ、四月本官を免じ、【位記褥奪】位記を褥奪せられた。罪狀は明かでない。或は廣澤參議暗殺の嫌疑に因るとも云はれた。斯して十二月本籍に復し、親類預となつたが、翌年七月免ぜられ、【阿蘇神社宮司】六年三月肥後阿蘇神社宮司兼大講義に補せられたが、病を以て直に辭職した。十一月七等出仕に任ぜられ、【御系圖調を命ぜらる】歷史課中御系圖調を命ぜられ、七年八月皇國の古典に則り、季節に皇靈を祭祀せんことを建議した。【皇靈祭の建議】春秋兩季に皇靈祭の行はるゝに至つたのは、一敏の建議に基づくといはれて居る。【晩年の歷任】八年八月修史局三等修撰に任ぜられ、九年七
月山城、大和を巡視し、請ふて歸鄕し、考妣の墓に展して、十一月歸京した。十年一月二等修撰に昇進した。修史局廢せられ、尋いで修史館を置かるゝに及び、四等編修官となり、九月戊辰役以降陣歿者姓名履歷取調御用を命ぜられ、十月宮内權少書記官に轉じ、次いで御系譜掛を命ぜられた。十一年三月老年の故を以て辭職の際積年の勞を犒ひ特旨を以て從六位に敍せられ、金圓を賜ふた。十四年七月宮内省御用掛を命ぜられ、十五年十二月勳五等に敍せられた。十七年九月男廉夫(幼名悌三郞)三十六歳を以て歿し、翌十八年二月後妻綱子も亦病歿した。【昇敍】三月特旨を以て從五位に昇敍せられた。
【泉河の紀念碑を建つ】泉、河二州の民、一敏の遺業を追懷して措かず、五月二十八日記念碑を大阪府南河内郡古市村(現古市町)玉水隄上に建てゝ功績を誌し、(
小河一敏紀念碑文)且明治三年四月十四日は隄防修築成功の日なるにより、同日を以て每戸休業するを例とした。一敏十九年一月三十一日特旨を以て正五位に敍せられ、【卒去】是日卒然として逝去した、壽七十四。【祭粢料下賜】宮内省より祭粢料を下賜せられ、【墓所】二月二日武藏國豐島郡染井村共葬墓地に葬つた。二男忠夫後を襲いだ。(
小河一敏傳)【著者】著書頗る多く、王政復古義擧錄、義擧私記、義擧私記附錄、禽荒祕錄、再囚祕記、再囚書上控、入薩日記、明烏、五人男、僧胤康傳、猪首物語、追加猪首物語、詩歌集若干卷等がある。(諸家著述目錄)