密雲字は環溪、別に雪主と稱した。【越後名立町の人】文化十四年二月越後西頸城郡名立町に生れた。幼名は與吉、甫めて十二歳、近江彦根清涼寺の寂室賢光につき出家して衆峰と稱した。既にして十四歳の春、攝津莵原郡立毛村神宮寺(現海藏寺)の松濤天岩に師事し、十六歳の春より大智禪師の舊蹟として知られた肥後石貫郡石貫村廣福寺に修學すること二箇年、後同國飽田郡坪井村報恩寺に安居し、傍ら外典を學んだ。二十歳の時、【參禪修行】長崎皓臺寺の祖芳に就いて參禪し、天保九年の秋、神宮寺の松濤老師の退去に隨ふて、大阪に寓居し、執事となり、傍ら儒學、書畫、茶湯、花道等を學んだ。
天保十二年山城宇治興聖寺の囘天に參し、環溪密雲と改稱して居ること數年、【信太村蔭涼寺住職】安政元年二月和泉泉郡(現泉北郡)信太村蔭涼寺の住職となり、日々三、四十人の門下を率ゐて、堺附近に托鉢した。其際もと紅屋某の別墅で、金屋伊右衞門所有の庵室を借り、雲水の宿舍に充てた。【土川茂平師の行化を翼く】然るに其屋宇頗る荒廢したのを見て櫛屋町土川茂平、日々托鉢の規律の嚴肅なるに感じ之を營繕し、行化を翼けた。當時之を水晶宮と稱した。今の紅谷菴のことである。
元治元年秋、【豪德寺住職】武藏荏原郡世田ヶ谷豪德寺に轉住、明治元年春、【紅谷菴に接衆】紅谷菴に來つて接衆した。同菴は豪德寺在住以後衆僧散じて土川家の保管となつてゐたが此年環溪宇治の興聖寺に昇任したのを好機として、【紅谷菴を法地寺院とす】三月紅谷菴を法地寺院とし、其徒眉柏をして、同菴の住職たらしめた。明治二年の春再び紅谷菴に於て接衆し、同四年越前永平寺臥雲童龍の遷化に會し、【永平寺住職】太政官より同寺の住職に任命せられ、十月同寺に晉山した。(紅谷開祖環溪禪師略傳)當時永平寺も亦頽廢したが、環溪拮据經營よく之が興隆に盡瘁した。(近世禪林叢談)此月紅谷菴を片法幡會の寺格に昇進せしめた。明治五年朝廷教部省設置の際は、權少教正に補せられ、【紅谷菴を常恆會地とす】十一月紅谷菴を常恆會の寺格に昇進せしめた。翌六年大教正に補せられ、【七宗の管長】七宗の管長となり、【禪宗三派の管長】又禪宗三派の管長に推選せられた。此時に方り、排佛毀釋の難起り、環溪等大に之を慨き、有志と奔走して漸く阻止することが出來た。七年教部省は大教院を廢して、神佛兩道を分離し、且各宗を分派せしむるに及び、七宗管長の職は自ら停んだ。八年四月久我建通の猶子となり、姓を改めて久我と稱した。【曹洞宗管長】五月曹洞宗大教院設置に際し管長となり、【禪師號勅賜】九年絶學天眞禪師の勅號を下賜せられた。十二年道元に、承陽大師號下賜の際は諡號會を大教院に執行し式典を嚴修した。(紅谷開祖環溪禪師略傳)十七年十一月胃癌を病み、十二月七日遷化した。享年六十八歳、【墓所】武藏北豐島郡昌林寺に密葬し、翌十八年四月永平寺に本葬、自設の本山合併塔中に納めた。(紅谷開祖環溪禪師略傳)
環溪軀幹肥大、【人と爲り】眼光烱々として人を射、平生怒罵して人に接したが、世に裨益することは、敢て勞を厭はず、衆の歸服するところとなつた。【餘技】禪餘俳句をよくし、俳論にも亦一隻眼を有してゐた。(近世禪林叢談)