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(二六)極樂寺

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 極樂寺清淨山と號し、【位置】熊野町東五丁字寺町にあり、淨土宗堺大阿彌陀經寺末の尼寺で、寺格等外。【沿革】天平八年行基の開創と稱し(社寺明細帳)往昔境内法界引導碑石の邊に地藏堂を構へたが、(堺鑑中)嵯峨天皇の朝堂宇を再興して清淨山の山號を下賜せられ、寺内に居室を構へ、比丘と比丘尼とを分つた。其後附近の戸口次第に增し墓所の人家に接近せるを厭ひ、墓所及び地藏堂を野外に移し、比丘も共に隨ひ去つて是より尼僧のみ居住することゝなつた。(堺鑑中)其後寺觀漸く衰頽し、且つ兵火に罹つて、堂宇、佛像等を失つたが後覺心比丘尼之を再興した。(堺鑑中、泉州志卷之一)【印寺領】豐臣秀吉寺領二十石の印を寄せ、德川幕府亦之に傚ひ、(印狀、代々手鑑)明治四年正月に至り上地した。【僧房】寶永元年の記錄には、塔頭不遠、億土の二院と見え、(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)現存して居る。【本尊】本尊阿彌陀如來は行基の作と稱し(堺鑑中)【堂宇】本堂の外に辨天堂あり、境内は六百九十六坪を占めてゐる。(社寺明細帳)