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(九)廢禪樂寺

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 禪樂寺不盡山と號し、【寺址】寺址は南旅籠町東三丁字内農人町にあり、臨濟宗大德寺派堺祥雲寺末で、【本尊】本尊は聖觀世音菩薩であつた。(社寺明細帳)もと不盡菴と稱し、【沿革】天文年中武野紹鷗の開創である。(武野紹鷗位牌、祥雲寺略記)紹鷗は當時堺寺院の境域狹く、埋葬の餘地なきを憂ひ、地所を購ふて、之を各寺の墓地とした。元和以後諸寺院復興の際、紹鷗の外孫今井宗呑及び其二子等遠祖の遺業を偲び、復興の志を起こしたが、何れも志を達することが出來なかつた。【再興と開山】こゝに於て緣族谷正安二子に代つて之を再建した。(祥雲寺略記)天和三年中村宗久不盡菴の廢地を求めて諸堂を再興し、五月竣成した。是に於て天倫宗忽を請して重興開山とした。次で天倫の法嗣覺印義諦同菴の第二世となり、境内に佛在菴を創立して之に住した。(大心和尚墓記、增補正燈世譜)【第三世義統】元祿二年覺印の歿後法弟大心義統第三世となり、【改號】同十年八月禪樂寺と改稱した。檀信徒中村宗治資財を傾けて、諸堂を經營し、大釋迦像及び大藏經を支那に求め、【寺觀】殿堂を建て、龍護窟と稱し、傍に一小宇を造つて、藏經を閲する者の居室に宛て、之を轉全と稱し、次に鐘樓を構へ、梵鐘を懸けて廓夢樓と號し、衆寮を絶學と名づけた。又觀音菩薩帝釋天及び宗祖菩提達磨の像を彫刻せしめて、之を法事堂に安置し、寢室を默雷、庫裏を正命、山門を慈悲世界と稱した。(大心和尚墓記)境域七百四十五坪。舊時は東に門を開き、左右に石牆を繞らし、佛殿、樓臺巍然として聳え、樹蔭欝葱として庭園雅趣あり、鹽穴池を後にし、門外田園に連り、眺望頗る絶佳であつた。(堺大觀)【新井白石當境八景詩】新井白石に有名な當寺八景の詩がある。然るに明治末期佛堂、樓宇悉く廢壞し、庭園荒蕪し、(堺市史蹟志料)【併合】遂に同四十一年六月德泉菴に併合せられた。(社寺明細帳)廢墟は雜草離々として碑碣算を亂して倒壞して居る。【墓碑】中に當寺重興三世大心義統の墓碑がある。