少林寺は萬年山と號し、【位置】少林寺町東三丁字寺町にあり、大德寺塔頭黃梅院末、寺格五等。【沿革】元德年中(諸寺院明細帳には嘉曆年中に作る)桃源宗悟の開山で、寺號は大檀越小林修理亮法諡梅樹院殿重軍小林大居士(長松山禪通寺年鑑)の姓を採つて小林寺と號したが、後菩提達磨の少林寺に擬して少の字に書き改めたといふ。往時の境域は今の寺地町、少林寺町を包擁し、兩町の海濱にまで達したが、織田信長に沒收せられて次第に衰頽し、(堺鑑中、泉州志卷之一)寺地は終に寺地町と少林寺町との新市街に分割せられた。然し、兩町の地子は尚當寺に收納し來つたが、寬永十一年閏七月全市街の地子を免除せらるゝに及び、(文化十年手鑑)從來寺納し來つた地子も亦當寺に於て之を免除することゝした。(堺鑑中、泉州志卷之一)豐臣秀吉は石田三成(泉州志には石田隱岐守)小西行長をして、境内竹木の伐採を禁止したとあるから、當時猶名刹であつたことが解かる。(堺鑑中、泉州志卷之一)【舊塔頭】寶永元年の記錄には、塔頭に耕雲菴、心源菴、祗孤菴、養松菴、曹溪菴及び一翁軒の六坊の名が見えて居る。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)【禪通寺併合】明治三十九年十二月戎之町東四丁の禪通寺を併合した。【本尊】本尊釋迦牟尼佛、【堂宇】本堂、庫裏、玄關、納屋等あり、外に白藏主堂がある。(社寺明細帳)明治四十五年再建、大正十二年十一月竣成、同十三年五月落慶供養式を擧行した。(再建關係記錄)【白藏主堂】白藏主堂は白藏主稻荷を祀り、一に通心靈祠といふ。(和泉名所圖會卷之一)天文五年(堺鑑、和泉名所圖會には永德中に作り、泉州志には永祿中に作る)塔頭耕雲菴の住持白藏主鎭守稻荷明神に參籠して、【靈狐傳説】靈狐を得、其物語から吼噦狂言が作られたと云はれてゐる。(少林禪寺稻荷大明神緣起)此頃大藏某なる狂言師があつて、此靈狐の動作を狂言に作り、釣狐又は吼噦と名づけた。彼の靈狐は大藏が藝道に熱心なる志に感じ、一日老翁に化けて同狂言の動作の骨髓を傳へたと云ふ。(堺鑑中、泉州志卷之一)是より此狂言を演ずるときには、必ず此處に參詣し、彼の靈狐の棲んだ竹籔の小篠を伐つて杖とすることが、故實となり、享保十八年京都の吉田家より通心靈社の神號を授與せられた。(和泉名所圖會卷之一)境内六百坪、(社寺明細帳)【什寶】什寶の主なものに開山桃源宗悟自贊畫像一幅、【碑墓】墓地に堺奉行石野筑前守範至等の墓碑がある。