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(一一)少林寺

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 少林寺萬年山と號し、【位置】少林寺町東三丁字寺町にあり、大德寺塔頭黃梅院末、寺格五等。【沿革】元德年中(諸寺院明細帳には嘉曆年中に作る)桃源宗悟の開山で、寺號は大檀越小林修理亮法諡梅樹院殿重軍小林大居士(長松山禪通寺年鑑)の姓を採つて小林寺と號したが、後菩提達磨の少林寺に擬して少の字に書き改めたといふ。往時の境域は今の寺地町、少林寺町を包擁し、兩町の海濱にまで達したが、織田信長に沒收せられて次第に衰頽し、(堺鑑中、泉州志卷之一)寺地は終に寺地町と少林寺町との新市街に分割せられた。然し、兩町の地子は尚當寺に收納し來つたが、寬永十一年閏七月全市街の地子を免除せらるゝに及び、(文化十年手鑑)從來寺納し來つた地子も亦當寺に於て之を免除することゝした。(堺鑑中、泉州志卷之一)豐臣秀吉石田三成(泉州志には石田隱岐守)小西行長をして、境内竹木の伐採を禁止したとあるから、當時猶名刹であつたことが解かる。(堺鑑中、泉州志卷之一)【舊塔頭】寶永元年の記錄には、塔頭に耕雲菴心源菴祗孤菴養松菴曹溪菴及び一翁軒の六坊の名が見えて居る。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)【禪通寺併合】明治三十九年十二月戎之町東四丁の禪通寺を併合した。【本尊】本尊釋迦牟尼佛、【堂宇】本堂、庫裏、玄關、納屋等あり、外に白藏主堂がある。(社寺明細帳)明治四十五年再建、大正十二年十一月竣成、同十三年五月落慶供養式を擧行した。(再建關係記錄)【白藏主堂白藏主堂白藏主稻荷を祀り、一に通心靈祠といふ。(和泉名所圖會卷之一)天文五年(堺鑑、和泉名所圖會には永德中に作り、泉州志には永祿中に作る)塔頭耕雲菴の住持白藏主鎭守稻荷明神に參籠して、【靈狐傳説】靈狐を得、其物語から吼噦狂言が作られたと云はれてゐる。(少林禪寺稻荷大明神緣起)此頃大藏某なる狂言師があつて、此靈狐の動作を狂言に作り、釣狐又は吼噦と名づけた。彼の靈狐は大藏が藝道に熱心なる志に感じ、一日老翁に化けて同狂言の動作の骨髓を傳へたと云ふ。(堺鑑中、泉州志卷之一)是より此狂言を演ずるときには、必ず此處に參詣し、彼の靈狐の棲んだ竹籔の小篠を伐つて杖とすることが、故實となり、享保十八年京都の吉田家より通心靈社の神號を授與せられた。(和泉名所圖會卷之一)境内六百坪、(社寺明細帳)【什寶】什寶の主なものに開山桃源宗悟自贊畫像一幅、【碑墓】墓地に堺奉行石野筑前守範至等の墓碑がある。