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(二三)大谷派堺別院

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 大谷派堺別院は羅漢院と號し、【位置】櫛屋町東四丁字花田口筋にあり、【沿革】天正七年本願寺教如紀州下向の途、堺川端町の深廣寺に入り、後大谷派を立つるに及び、其緣故を以て深廣寺を坊舍に宛てたが、寺域狹き爲め北の庄極樂寺境内及び虛空藏堂の舊地を併せ、東西十間、南北十五間六寸を購ふて一寺創建を企て、慶長十六年(東本願寺通記及び同寺の記錄には十七年に作る)鰯屋道甫より隣寺眞言宗羅漢院の寺地東西四十三間、南北十五間三二寸を寄附せられ、こゝに寺觀を構へ元和二年に至つて竣成した。(最勝寺由緖略記)北御坊に對して南御坊の稱あり、【舊寺家】寬永元年の記錄には、寺家に傳久寺眞福寺正信寺と誠知の名が見えて居る。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)【燒失】明治二十年四月香部屋より出火して本堂を燒失し、(眞光寺記錄)同二十八年十二月再建。(堺大觀)大正五年十一月再び出火して本堂、大廣間、輪番所、香部屋、玄關等を燒失し、同七年十一月漸く舊觀に復した。境域千四百二十七坪。(社寺明細帳)四方に境壁を繞らし、本堂を中心として數多の堂宇之を圍繞してゐる。【本尊】本尊は阿彌陀如來、【堂宇】堂宇には、本堂、庫裏、書院、奧書院、新書院、廟堂、經藏、鐘樓、鼓樓、佛供所、座敷、玄關、小玄關、茶所、土藏、東西南北の長屋、表門、門番所、玄關門、西門等がある。(社寺明細帳)【舊梵鐘】當院にあつた舊梵鐘は、もと河内中河内郡龍華村太子堂大聖軍寺の法器で、山川助永の鑄造にかゝる。助永の盛時は文永、建治、弘安、正應の二、三十年間に亙つて居るが、此鐘は恐らく正應年間に鑄造せられたものであらう。後當院に移され、延寶頃現泉南郡麻生鄕村大字半田の大谷派本願末寺道教寺の住僧教祐功を以て、法主より此鐘を酬ゐられ、今同寺に現存してゐる。(攝、河、泉金石文)