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(四〇)淨得寺

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 淨得寺大覺山と號し、俗稱海船御堂、【位置】錦之町東二丁字寺町にあり、眞宗大谷派本願寺末、寺格準二等別助音地に列せられ、【沿革】行基の創建と傳へ、天台、眞言を兼學し、中古以來七堂伽藍を具備した巨刹と稱し、文殊、寶積、玉鳳、普賢、寶藏、玉龍院等の支坊を有し隆盛を極めたが、後醍醐天皇の朝兵火に罹り、爾來漸く衰頽した。舊地を七堂、南大門のあつたと云はれる通路を伽藍町といふ。其後法性院權大僧都法印了圓(文安四年十一月十三日示寂)本願寺存如に歸依し、永享三年二月眞宗に轉じた。故に了圓を中興の始祖としてゐる。慶長三年現在の地に移轉。(社寺明細帳)是より先、第五世權僧都祐專(永祿元年七月十九日寂)弘治三年正月靈夢に感じ、今池(舊向井村中筋)の池中より、【本尊】阿彌陀の尊像を得之を本尊とした。(淨得寺本尊緣起)【支坊】支坊玉龍院は後獨立して同寺の末寺となり、維新後再轉して大谷派本願寺末となり、綾之町東一丁字山ノ口に在つたが、明治二十八年四月材木町西二丁に移轉の許可を得同四十一年十月明細帳より削除せられた。(諸寺院明細帳)斯して當寺は市内の古刹として、【堂宇】本堂、庫裏、鐘樓、土藏、門を具へ、境内百四十四坪を有し、(社寺明細帳)【什寶】什寶に傳行基作迦羅佛一軀、十一面觀世音泥像一軀、阿彌陀如來立像一軀、傳惠心僧都筆來迎引接阿彌陀如來畫像一幅、親鸞爪形鏡御影一面、教如石山感狀一卷、淺井長政陣中守護佛一軀、親鸞畫傳四幅等がある。【松永久秀の位牌】又住吉屋惣右衞門家の始祖松永久秀の位牌あり、妙久寺殿教雪大居士、天正五丁丑歳十月十日と記してゐる。【墓碑】墓地には住吉屋歷代及び茶人隱岐宗沕の墓碑がある。