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(八)天白稻荷神社址

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 【所在】堺政所の鎭守天白稻荷神社は車之町東二丁堺市役所西南隅にあつたが、明治四十年九月高須神社へ合祀移轉した。奉行御役屋敷繪圖には奉行屋敷の奧向庭園にあつて、辨財天琴平神社等の境内末社を記してゐる。【舊址】舊址は今堺市役所の物置場となり、【細葉冬青の老樹】僅に細葉冬青の老樹が二本殘つてゐる。樹幹の高さ各三丈餘、周圍目通り一は八、一は五、樹齡五百年と稱せられてゐる。(堺市案内)
 【由緖】當社は殿馬場稻荷とも稱し、創建當時の結構頗る宏麗で、奉行自ら祭事を奉仕し、石燈籠其他を寄進して居り、其主なるもの左の通りである。(堺殿馬場稻荷神社書上)
【奉行の崇敬】

石燈籠  天正  五、 二、吉日   石田 三成
同        九、 二、吉日   大谷 吉隆
同       十九、 二、吉日  富田庄左衞門
同    文祿  二、 二、     石田 重成
同    慶長  六、 二、吉日   成瀨 正成
同       十九、 五、吉日   朝倉 宣正
石燈籠  慶長 二十、 二、吉日   青山 正和
同    元和  二、 二、吉日   長谷川藤廣
同        四、 二、吉日   喜多見勝重
同    寬永  六、 八、五    島田 直時
同    寶曆  七、 九、――   池田 政倫
同        八、 正、吉日   同    
石燈籠  寶曆 十四、 五、吉日   坂部 平明
同    安永  五、 九、七    石野 範正
眷 族  天明  三、 六、吉日   山崎 正導
                   戸田 忠義
石燈籠      八、 ― 初午   堀山 一也
                   岸  保正
同    寬正  六、 二、初午   贄  正壽
石鳥居     十二、 二、吉日   仙石 政寅
石燈籠  享和  二、 二、     矢部 定令
同    文化  六、 ― 初午   土屋 廉直
同        九、 二、初午   依田 政明
石鳥居     十三、 二 初午   小菅 正芳
石燈籠  文化 十五、 二、初午   關  行篤
同    天保  四、 二、     矢部 定謙
同        五、 二、     跡部 良弼
同        八、 二、     曲淵 景山
百度石     十三、 八、     水野 忠一
石 橋     十五、 二、吉日   永井 尚德
石鳥居  安政  三、 正、吉日   關  行篤
紀念石      三、 ――     同    
石燈籠      六、 二、     一色 直溫
同    文久  四、        鳥居 忠善
同    元治  二、        瀧川 元義
 

 此等の中池田政倫矢部定令贄正壽土屋廉直、依田正明、矢部定謙曲淵景山一色直溫鳥居忠善瀧川元義の寄進燈籠は猶合祀された高須神社に存してゐる。然し右表中になくして現存してゐるものに、小笠原信用佐野正親三宅康哉、久世廣正、伊奈忠告石谷清穆の石燈籠及び松平正十の金燈籠、石野範至の狛犬等がある。
 斯の如く由緖ある神社であつたが、【荒廢】慶應の末奉行廢止と共に次第に忘れられ、維新後稻荷神社と改め、遂に合祀されたのである。(社寺明細書、堺史料類纂)合併當時の境内は三百六十坪、桁行二間、梁行三間半の本殿と二間四方の社務所の外に、琴平神社嚴島神社等の末社があつた。(社寺明細帳)