第百八圖版 向井神社馬場先址
【元祿頃の狀態】元祿頃には境内東西二十八間餘(新間三十間二尺餘)南北五十一間(新間五十五間一尺五寸)を有し、東、南、北の三方に門を附し、南門より南へ幅員五間(新間五間二尺五寸)延長七十六間(新間八十二間二尺)の馬場先があつた。其境内中央には東北二方に鍵形の瑞籬を設け、中に南面の本社が建ち、東南方には池水を湛へ、中島に小祠を設け、殊に馬場先兩側には櫻其他の並樹を植ゑてゐる。(元祿二年堺大繪圖)當時營造物は方一間半の本殿、二間に一間半の幣殿、五間に二間の拜殿を初めとし、神明、八幡、稻荷、愛宕、大黑、辨財天、香椎、荒神の末社があつた。(元祿十四年和泉國大鳥郡堺廻四箇村覺書)【櫻の名所】境内及び馬場先の櫻は明治以後も猶堺大觀に收めた寫眞で見ると、依然として陽春の候には白雲靉靆の狀を示してゐる。【明治以降の變遷】維新後廢佛により向泉寺との關係を斷ち、同六年鄕社となつた。同二十年境内小山にあつた大年神社は同山が御陵の陪塚に指定せられた結果他へ移轉し、同二十六年市之町東五丁阿彌陀寺にあつた無格社如意神社及び同末社彦天津積神社を合祀した。方違神社へ合祀移轉の頃には境内千六百二十一坪を有し、本社、幣殿、拜殿、神輿庫、社務所及び伊邪那岐、伊邪那美、埴山、武内、愛宕、神明の六末社があつた。(社寺明細帳)
第百九圖版 舊向井神社