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(四)引接寺址

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 【所在】室町時代の名刹引接寺少林寺町東三丁字寺町にあつたが、明治六年中之町東二丁正法寺に合併せられ、後其舊址は少林寺尋常小學校の敷地になつた。【元祿二年の狀態】元祿二年の堺大繪圖には樽屋町二丁目にあつて西面し、周圍東は内農人町筋、西は樽屋町筋を隔てゝ共に人家と對し、南は少林寺、北は荒神町筋に接した東西五十二間五八寸五分、(新間五十七間一八寸五分)南北二十九間二寸(新間三十一間二七寸)の境域を有し、内北側に長屋三十二間、東側に長屋七軒があつた。【舊址】此境域は現在少林寺町東三丁十一番地高田虎三氏住宅を東北端、同丁一番地山本治三郞氏住宅を西北端、少林寺尋常小學校裏側を東側、同校表門側南端を西南端とした長方形の一劃である。其大部分は少林寺尋常小學校敷地となつてゐるが、北側一帶の人家は元祿當時の舊位置に當つてゐる。【創建地】然し本寺の創建地は右の區域ではなく、應永八年四月二十三日足利義持の御教書に示されてゐる津守國夏寄進の東宿院より西三十七町、北今市町より南三十八町の地であつた。(開口神社文書)所謂宿院とは今の宿院御旅所のある地で、今市町とは元祿二年の堺大繪圖にある今日の宿院町西一丁字中濱筋である。從つて其境域は宿院御旅所以西、宿院町西一丁以南の地域に當るも、其東西幅は海面が陸地となつた今日さへ猶宿院御旅所より海岸迄十數町よりないから當時三十七町とは海面を込めての意味に解せられる。【移轉年代】此創建地より前記舊址のへ移轉年代は明らかでないが、恐らく元和町割の際であらう。