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(一七)百舌鳥耳原中陵

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 歷代帝陵中第一の規模を有する百舌鳥耳原中陵は仁德天皇の壽陵で、俗に大仙陵又は鶯の陵とも稱し、【所在】舳松村に所在してゐる。【御陵參道】舊市街の南端御陵前停留場前から少林寺橋を渡り東に通ずる幅員四間、延長千二百間の御陵參道を進めば、松櫻の並樹盡くる所に休憩所があり、程なく御陵正面に達する。正面には一般有資格者の拜所及び陵墓掛の詰所がある。
 【規模】御陵は未の方を正面とした三段山造の前方後圓形で、二堤三重隍を廻し、周圍千五百十間、面積十三萬七千九百四十七坪餘を算する。内前方は徑二百七十間、幅六十八間、高さ百十餘、後圓は徑百三十六間、高さ百十餘を有し、前後の徑二百六十九間である。(陵墓誌、聖帝仁德天皇)陵墓は一面に松、杉、檜等によつて覆はれ、外見端正な丘狀を示してゐるが、【四十八谷】其實起伏多く俗に四十八谷と稱し、尾張谷を以て最大なものとしてゐる。又陵墓の東方には御井戸と稱して清水の湧出する所もあれば、【國見山】前方の頂上には舊幕時代に遊山を許した名稱をとゞめて國見山と稱するところもある。【環隍】御墳墓の所在は後圓の頂上約二百坪位の間で玉垣を廻すといふ。(舊陵掌筒井幸四郞氏説)陵墓の第一隍は内隍で、幅員三十五間乃至四十四間、水深二十、雨期二十八に達し、第二隍は中隍とも呼び第一土堤を繞つて幅員第一隍に次ぐ。第三隍は第二土手を廻つて外隍とも稱し、水位前兩隍に比し東南北は高く、西方は逈に低く場所によつては涸渴した所もある。其幅員又前二隍に劣つてはゐるが、西方の如きは陪塚を挾んで相當に大きい。隍中第一隍の陵墓際は柵を廻して崩壞を防ぎ、平常舟を浮べ、用水を第二隍へ落してゐる。第二隍は正面及び裏門に渡土手を附して第一第二の兩土手を聯絡し、西方に關を設けて水を第三隍へ落し、第三隍は正面及び裏門に渡土手を設けた外に、西方に五箇所の渡土手がある。其隍水も南側は御陵南方數町步、西方は舳松村七十町步の灌漑用水となり、西方中央の畔に大關、伏樋を設けて排水してゐる。隍水は常に雨水を湛へる仕組とし五六月の候には滿水してゐるが、若し冬季雨量少く三四月の頃猶充たない時は河内狹山の池水を引いて補給するのである。(陵墓誌)三隍水の關係は前記井關の外に伏樋を以て、聯絡し、灌漑用水を御下賜水と呼び樋管工事を舳松村の負擔としてゐる。【陪塚】陪塚十二箇所東南北に各二箇所、西方に六箇所、左の如く呼ばれてゐる。

第百三十六圖版 百舌鳥耳原中陵

 
 

第百三十七圖版 百舌鳥耳原中陵實測圖

 
 
 坊主山 源右衞門山 狐山 銅龜山 樋ノ谷 菰山 丸保山 長山 孫太夫山 龍佐山 大安寺山 茶山
 【坊主山】〔坊主山〕 御陵の東南隅に位した不正形の圓墳で、反別一畝十九步(陵墓誌)環隍の址は認め難い。
 【源右衞門山】〔源右衞門山〕 御陵の東北高野街道の東側に所在し、高さ一丈四、周圍五十間四、反別七畝五步の圓墳で(陵墓誌)其稱呼は舊時の所有者名によるものである。(享保九年中筋村田畑舳松領に入組繪圖)環隍を存してゐないが、東北より南を經て西南に至る周圍に幅員三四間の畑地を繞らしてゐるのは其遺址を示すものであらう。

第百三十八圖版 源右門山見取圖

 
 
 【狐山】〔狐山〕 御陵の西南方參道の南側にあつて高さ一丈二、周圍四十間三五寸、反別四畝三步を有した圓墳である。(陵墓誌)環隍の址は北側に完全な空地として存せられ一部は堀溜となつてゐる。
 【銅龜山】〔銅龜山〕 御陵前方部の西方高さ一丈四、周圍五十一間五寸、反別五畝二十五步の圓墳で、(陵墓誌)環隍を失ひ周圍畑地となつてゐる。德川時代堂龜山とも記してゐる。(享保十五年舳松領繪圖)
 【樋ノ谷】〔樋ノ谷〕 御陵西側の前方部と後圓部との境第三隍中に所在し、高さ一丈、周圍八十一間三、反別一反八畝十一步の不完全な前方後圓で(陵墓誌)周圍の第三隍を以て環隍に充てた形になつてゐる。

第百三十九圖版 樋ノ谷見取圖

 
 
 【菰山】〔菰山〕 後圓部西方にあつて、高さ一丈三、周圍四十間三五寸、反別一反五畝十七步の不整な前方後圓で(陵墓誌)西南二方に環隍の一部を傳へてゐる。
 【丸保山】〔丸保山〕 菰山の北方にあつて高さ二丈四、周圍八十七間、反別二反二畝十九步の前方後圓で、(陵墓誌)完全に環隍を傳へ、西南隅には伏樋が設けられてゐる。

第百四十圖版 丸保山見取圖

 
 
 【長山】〔長山〕 御陵の西北方にあつて後圓部の高さ三丈、陪塚の周圍百七十二間、反別五反三畝四步を有する前方後圓墳である。(陵墓誌)環隍は殆んど完全で僅に後圓部東側の一部を小溝として存してゐる。東南側は淺いが西北二方は最も深く常に水を湛へてゐる。

第百四十一圖版 長山全景

 
 

第百四十二圖版 長山見取圖

 
 
 【孫太夫山】〔孫太夫山〕 御陵拜所の南方にあつて高さ一丈八、周圍七十間三、反別一反四畝の不整形な前方後圓墳である。(陵墓誌)環隍は完全に畑地となつて面影を傳へ、内東南方數間の間は今も猶地上より水面迄八の水溜となつてゐる。陪塚の前方部は殆ど失はれてゐる。名稱は舊時中筋村庄屋南孫太夫の所有であつた爲めに生じたものである。(享保九年中筋村田畑舳松領に入組繪圖)

第百四十三圖版 孫太夫山見取圖

 
 
 【龍佐山】〔龍佐山〕 孫太夫山の西方御陵休憇所に南接し、德川時代には良佐山と記してゐる。(享保十五年舳松領繪圖)高さ二丈、周圍九十一間八寸、反別一反五畝十八步の不整形な前方後圓で、(陵墓誌)環隍は畑となり僅に東北二方に幅員二の小溝を傳へてゐる。
 【茶山】〔茶山〕 御陵裏門より西方十數間を隔てた第二土堤及び第三隍に跨り存し、周圍約百間内外、反別二反七畝五步の圓墳である。(舳松村役場調査)
 【大安寺山】〔大安寺山〕 裏門の東方十數間第二土堤と第三隍とに跨り存する。高さ二丈四、周圍百五間三、反別二反六畝二十八步の圓墳である。(陵墓誌)舊時大安寺の所有地であつた爲めに其名を生じ、單に寺山と稱した事もある。
 以上陪塚の外に猶御陵附近には長塚山、塚廻、收塚を初めとし古墳猶多く偶其等一部の破壞によつて出土した遺物は考古學界の參考に資せられてゐる。【明治五年の露出】其出土記事は早く德川時代に見えてゐるが(白石紳書)明治五年の御陵前方部初級山頂南方の崩壞に基く露出(大仙陵前峰發掘物考證寫)は我國發掘物年代推定の基本となり、且仁德天皇時代の文化史料として喧傳せらるゝに至つた。出土狀態は地下一の所に石槨の蓋があり、石槨内に石棺を初め、多數の副葬品を發見した。石槨の蓋は三枚の巨石よりなり、蓋石は極彩色屋背(やねなり)狀を示し、棺は四角で蓋石と共に四方に綱懸がある。副葬品中主要な物は甲冑、玻璃器であつた。甲は鐵製で左手の脇から胸板の半まで屈伸なく作り固め、右手の脇に旋機(てうつがひ)を設けて甲を左肩上に打ち懸け、右の板を引寄せ胸上中心(むないたなかご)で左袵に組合す製法である。冑は甲と同じく鐵製銅鑄金を施し、玻璃器は二箇で一は蓋無き壼物、一は白玻璃の器物である。(大仙陵前峰發掘物考證寫)【昭和三年の長山堤塘發掘】次いで昭和三年陵西土地區劃整理組合の土工施行中陪塚長山前方部西側環隍の堤塘發掘に際しても、種々の參考品を出した。卽ち發掘品は埴輪圓筒であるが、其發掘場所は他の例に見るが如く遺骸近くでなく、應神、仁德兩帝陵と規を一にした位置であるから、凡そ其築造年代を推定せられる譯である。
 御陵は德川時代の記錄によれば、其規模北山(後圓)の高さ十六間四、南山(前方)の高さ十四間、山の惣廻り七百三十間より六十間迄、東の山の根南北二百四十三間、西の山の根南北二百四十間、山の根より樋前迄八十一間、外堤(第二土堤)東側五町十八間、西側五町五十三間、南側五町三十八間、北側四町三十八間であつた。又池(環隍)の廣さ西山際より中島(第一土手)迄四十八間、東山際より中島迄四十五間、南山際より中島迄三十三間、北山際より中島迄三十四間、中島の惣廻り九百六十四間であつた。(元祿八年改堺手鑑)當時完全な環隍は第一、第二の兩隍で、第三隍は南側拜所以西及び之に續いた西側の一部に存した外は田畑に鍬かれてゐた。殊に第一隍の西方は伏樋でなく土手を切つて第二隍へ聯絡し、第二隍は西側中央より排水口を設けて灌漑用に引いてゐた。(享保九年中筋村田畑舳松領に入組繪圖)
 【幕末の狀態】斯くして幕末に至り嘉永五年堺奉行河村修就は丘上の遊山並に不敬動作を停め、後圓部の勤番所を裏門に移し、御所在附近二百坪へ高さ三の石柵を亙し、東側に扉を附した。(陵墓誌)次いで元治元年には御拜所を設け環隍の修築を行つた。
 【明治以降の取扱】明治に入つて宮内省の管轄となり、後堺縣、大鳥郡、大阪府を經て再び同省諸陵寮へ移管せられた。(青木齊治氏談)明治年間には種々の改革と修覆とが行はれたが、就中明治二十年代の御料木の植替によつて今日鬱蒼の狀となり、同三十年代の修築によつて第三隍が現狀となつた。其第一土手の切目も亦明治初年再び埋められて現狀を示すに至つた。【大正昭和時代】大正に入つては同六年皇太子裕仁親王、同十三年皇后皇太后)御參拜あらせられ、殊に十三年には東宮御成婚記念事業として御陵參道及び車寄廣場が出來、昭和三年には一般休憩所が設けられた。(陵墓誌、聖帝仁德天皇)【百舌鳥三帝陵奉賛會】同四年六月堺市立高等女學校に於て市會の協贊に基く百舌鳥三帝陵奉賛會の發會式を擧行し、長へに聖帝の遺德を偲ぶ事とした。