約七〇〇〇年前ころになると古石狩湾内に、微妙な変化が現れてきた。それは、湾内の静かな海況が外洋と直接するような状態になったことである。この変化は、おそらく、湾口付近にあった砂州状のバリヤーが、海水面の上昇にともなって破壊され、湾内に外洋水が自由に入り込める状態になったことによるものである。浅海域には沿岸流によって移動した砂が、砂州を形成するように堆積したのである。つまり前田砂層(前田砂州)の形成である。この浅海底砂州の形成は七〇〇〇年前から六八〇〇年前ころまで続いた。そして、そのころ、山地部の上昇運動により、この海域に運ばれてくる物質は粒度が粗い礫となる。そうした礫も海に入ってからは沿岸流で移動し、次第に、以前からあった前田砂州に沿うように、その外縁部に礫が堆積していったのである。そして、約六〇〇〇年前には、この砂礫州は古石狩湾を二分する海の中道として海面上に姿を現すことになる。
この時期の気候状態は以前と同じように温暖であるが、約六〇〇〇年前には再びコナラ属が優勢になる。つまり、完新世の最温暖期が約六〇〇〇年前ころとなるのである。当然、海水面も現在より三~四メートル高くなった。しかし、海水は紅葉山砂礫州により、内陸への浸入を阻まれていたのである。海岸線となった紅葉山砂礫州のうえには、海浜から吹き上げられた砂が堆積し、五〇〇〇年前ころまでには海岸砂丘へと成長したのである。
月寒台地を中心とした東部台地には、とくに、月寒川下流、望月寒川などに沿う台地縁や厚別台地などには、この時期、つまり縄文文化前期の人びとの生活あとが残されている。さらに、前の時期には、生活基盤として不安定だった発寒川扇状地の末端(発寒地区)などに人類遺跡が残されている。この事実は発寒川扇状地の形成が六〇〇〇年前ころまでには終わりをつげ、以後は植生の侵入などによる固定化への段階に入ったことを示すものである。これに対し、豊平川はまだ扇状氾らん原のうえを自由に流れ砂礫を堆積させていたのである。