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泥炭地形成期(四〇〇〇年前~現在)

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 四〇〇〇年前を境に気候はやや回復し、低地には、現在もみられるようなコナラ属・カバノキ属・クルミ属・ハンノキ属・イタヤ属・カツラ・シナノキ属などを主とした温帯広葉樹林が、丘陵には、トドマツ・エゾマツからなる針葉樹林が成立する。
 四〇〇〇年前ころまでには、すっかり低地化した紅葉山砂丘の内側は、最後に残された沼地の埋積がはじまる。この埋積作用は土砂によるものではなく、植物遺体が年々わずかずつ堆積した泥炭によって連続的に行われた。市北部の篠路から江別対雁の沼は、四〇〇〇年前から沼の周辺に繁茂したヨシやハンノキなどが堆積し、沼を埋め、二〇〇〇年前ころには高層湿原へ変化しミズゴケなどからなる高位泥炭地の形成となったのである。その南に続く大谷地―厚別泥炭地もやや時間のずれはあるが三八〇〇年前ころから形成されはじめている。そして手稲前田を中心とした西部の泥炭地は、約三二〇〇年前ころから形成され、紅葉山砂丘の外側へまで広がっていったのである。古豊平川古発寒川の氾らん低地上では、一時的に各所に小規模な泥炭地が形成されたが、それらは、氾らんのたびに土砂におおわれ、その下へ埋没した。現在、地表で確認されている泥炭は、およそ二〇〇〇年前以降に形成されたものなのであろう。このように、四〇〇〇年前以降は、低地の歴史を語る最後の泥炭形成によって特徴づけられるのである。
 ところで、四〇〇〇年前から現在までは、気候的には、ほとんど変わらないと述べたが、道北地方や山岳湿原などにおける最近の花粉化石の研究によると、二〇〇〇年前ころに冷涼で湿潤な時期があったとされている。石狩海岸平野においては、花粉化石による証拠は明瞭でないが、紅葉山砂丘の外縁の花畔砂層の最上部が土壌化され、それがポドゾル性土壌(*)の形態となっている。ポドゾル性土壌は寒冷・湿潤気候下の針葉樹林帯に生成される土壌で、北海道では、現在、道北の浜頓別町の旧砂丘帯に分布している。この花畔低地のポドゾル性土壌の層位は、前記の手稲前田を中心とする泥炭層(約三二〇〇年前)の直下にあたる。このようなことを考慮すると、約三二〇〇~三三〇〇年前から二〇〇〇年くらい前までの間は冷涼・湿潤な時期があったと考えてよいであろう。そして、おそらく、この時期の小海退により花畔低地の北半(海寄り)も完全に離水し、一五〇〇~一六〇〇年前ころからの小海進にともなって石狩砂丘(内陸側のもの)の形成がはじまり、擦文期の後期には砂丘が固定したと考えられる。砂丘が形成された直後から、擦文時代の人びとは、おそらく海の幸を求めてこの砂丘地帯に足跡を残してきたのである。
 
 *ポドゾル性土壌 ポドゾルはロシア語のポド(灰)ゾル(土)の意味で、日本では漂白土と訳されている。寒帯の比較的雨量の多い針葉樹下で生成される土壌で、シベリア・カナダ・スカンジナビアなどのタイガ林に典型的に発達する。北海道では典型的なポドゾルは生成されないが、ポドゾル化作用によって生成された土壌が道北地域に分布している。
  ポドゾルの分布地域は、気候が寒冷なため、微生物の活動がにぶく、とくに針葉樹の落葉は樹脂などの分解されにくい物質に富んでいるので粗腐植として地表にたまる。その粗腐植中には複雑な組成をもった有機酸類が含まれ、無機的土層中の鉄分・アルミナ・塩基などを溶かす。雨量がわりに多く、日射量や蒸発量が乏しいので、雨水が地下に滲み込む割合が大きい。そのため、鉄・アルミナなどを溶かした有機酸類は、腐植といっしょになって水とともに下層に移動する。そして、そこに鉄・アルミナ・腐植などが沈殿、集積する。また、表層の粘土分も雨水に分散して下層に移動する。そのため、粒度が粗い漂白層と細粒の集積層との分化が生ずる。このような作用をポドゾル化作用という。この作用で生成された土壌がポドゾルである。典型的なポドゾルの土壌断面と北海道のそれとを比較すると北海道のものは黒色の腐植層が発達していることである。