後期の遺跡は、西区手稲の紅葉山砂丘、同じく発寒川扇状地、月寒台地を中心にして、全道的に比べても決して遜色のない大遺跡が営まれていた。特に、後期の土器の研究のうえで重要な土器を出土した手稲遺跡、環状列石と思われるN一九遺跡、円形周堤墓と思われる白石神社遺跡、S三五四遺跡などが現在までに良好な姿で残されていたならば、北海道の後期文化を解明するうえで、重要な発掘調査を行うことができたであろう。このような先史時代の大遺跡が営まれる場所は、現在のように治水技術の発達していない明治時代には、入植に最適の場所であり、早くから開発が進み、すべての遺跡が消滅してしまったことは、札幌の先史時代の文化を解明するためにまことに残念なことである。
後期の初頭では、中期以来の伝統である沈線文と貼付文の土器を出土する良好な遺跡が見られるが、前葉には、遺物を少量出土する遺跡が散発的に見られるのみである。中葉には、関東地方の加曽利B様式土器に包括される手稲式土器などを出土する遺跡が増加し、その後、後葉には、月寒台地に集団区画墓かとも考えられる遺跡が所在したらしいとの報告を除くと、散発に遺跡が発見されるのみである。しかも、遺跡の数は、中期に比べて約三分の一に減少している。遺跡数の減少は、その地に生活した人々の数も減少したと考えることができる。後期の遺跡の減少は、札幌市域に限ったことではなく全道的、全国的な傾向として捉えられる。本州、特に中期の文化が異常といってよい程栄えた中部山岳地方、関東地方などでは、中期の人口の一〇分の一に減少するとの試算がある。
この人口の減少は、中期末からの世界的な気候の冷涼化現象と関連づけて考えられている。気候の冷涼化は、当然、生態系に大きな変化を与えることとなる。狩猟・漁撈・採集を中心とする社会では、道具の改良や集団内の組織化により生産力が上昇し、人口の増加と集落の定着化が進むと、気候の冷涼化などのわずかな生態系の変化でさえも、その社会を維持することが困難となり、壊滅的な打撃を受けることとなる。しかし、当時の人々とて、座して死を待つばかりではなく、彼らの生存を賭した一大改革を試みている。生態系の変化や自然の再生産能力を超えた乱獲を回避するために、幼獣や雌獣の捕獲の禁止などや、呪術に大きく依存した集団の規制強化などにより、この事態を乗り切ろうとする試みである。
その結果、後期には、環状列石、周堤墓などの集団区画墓の出現や、石棒、玉、装身具、祭祀に使われたと考えられる注口付土器、台付鉢土器などの非実用的な遺物が急増したと考える見方もある。